ケンタッキー州中央部のいわゆるブルーグラス地域は、農園所有者がタバコとアサを栽培したので奴隷制度の中心地となり、また良質な家畜の産地にもなった。ケンタッキー州の奴隷所有者は、過剰になった奴隷を深南部に売り始めた。ルイビル市が奴隷市場の中心地となり、川を下って運ばれる奴隷の出発港になった。
南北戦争の時、ケンタッキー州は境界州の1つとなった[10]。ケンタッキー州はアメリカ合衆国から脱退しなかったと言われることも多いが、幾つかの郡代表がラッセルビルに集まり、それをケンタッキー州人民の会議」と呼び、1861年11月20日に脱退条例を可決した[11]。彼等はアメリカ連合国ケンタッキー州政府を樹立し、ボーリンググリーンを州都にした[12]。
アメリカ連合国戦闘旗で、ケンタッキー州は中央の星で表されているが[13]、ラッセルビル会議は州民の多数派を代表していなかった。州民の多くが北軍の同調者だったので、ケンタッキー州は戦争を通じて「中立」に留まった。戦中に南軍を支持した量を超えることになった「失われた大義」の復活では、当時の人々の中にアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスの誕生日、6月3日を南軍記念日として祝い、南軍の再現に参加する者がいた[14][15]。フランクフォート市にあるウィリアム・ゴーベルの彫像 20世紀初期に、自警団の動きからブラックパッチ・タバコ戦争が起こった。タバコ産業が独占された結果として、タバコ農家は低価格でタバコ葉を売らざるを得なくなった。地元農家や活動家が結束し、タバコ会社にタバコ葉を売ることを拒んだ。 自警団組織である「ナイト・ライダーズ」が、タバコ会社の言いなりになって低価格でタバコ葉を販売した農夫を襲った。ホプキンスビルやプリンストンなどではタバコ倉庫が焼かれた。その活動の後期に入ると、ボイコットを破る農夫に暴行を加えるようになった。州知事が戒厳令を宣言し、州民兵隊を動員して、ブラックパッチ・タバコ戦争と呼ばれたこの紛争を終わらせた。 1900年1月30日、州知事ウィリアム・ゴーベルは、2人のボディガードに伴われ、フランクフォート市中心街の州会議事堂に歩いていくときに、暗殺者に撃たれて致命傷を負った。ゴーベルは1899年の知事選挙に出馬していた。その選挙では当初ウィリアム・S・テイラーが当選したと見られていた。ゴーベルの副知事候補であるJ・C・W・ベッカムとテイラーが、数か月の間、誰が合法の知事であるかについて争い、5月に出たアメリカ合衆国最高裁判所判決では、ベッカムが勝訴した。テイラーはインディアナ州に逃げた後、ゴーベル暗殺の共同謀議者として起訴された。ゴーベルは在任中に暗殺されたアメリカ合衆国唯一の州知事となっている[16]。 参照:ケンタッキー州の郡一覧狭い郡道、石垣と板の塀で仕切られている。ブルーグラス地域で良く見られる 牧草州 (ブルーグラス州) とも呼ばれるケンタッキー州は、アップランドサウスに入っていると見なされている。希に中西部に含まれるとされることもある[17][18]。アメリカ合衆国南東部と隣接している。州東部のかなりの領域はアパラチア山脈に入っている。 ケンタッキー州は7つの州に接している。東部でウエストバージニア州及びバージニア州、南部でテネシー州、西部でミズーリ州、北部でイリノイ州、インディアナ州、並びにオハイオ州と接している。州の北部境界はオハイオ川によって形成され、西部境界はミシシッピ川によって形成されている。公式の州境は1792年にケンタッキー州が昇格した時の川の流路で決められている。その後幾つかの場所で川が流れを変えており、例えば、ヘンダーソンからアメリカ国道41号線で北に向かうと、オハイオ川を渡った後も約2マイル (3 km) はケンタッキー州内である。サラブレッドのレース場であるエリスパークが、ケンタッキー州のこの小さな地にある。インディアナ州との州境では、水道用道路が唯一の陸の境となっている[19]。 ケンタッキー州は他の州により囲まれた飛地を持つ唯一のアメリカ合衆国の州である。ケンタッキー州の最西部隅にあるフルトン郡には、1812年のニューマドリード地震によりミシシッピ川の流れが変わって形成されたケンタッキー・ベンドと呼ばれる小さな飛地があり、ミズーリ州とはミシシッピ川をはさんで、またテネシー州とは陸続きで隣接している[20]。
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