こうしてピエトロ・ダ・モローネは教皇ケレスティヌス5世として就任したものの、ローマには行かず自らの身辺をカルロ2世に委ねてナポリ(カンパニア州ナポリ県)に居住した[2]。また、カルロ2世を次期コンクラーヴェの正式な監視人とするばかりか、カルロ2世の望む人物を教会の役職に据えるなど、実質的にカルロ2世の傀儡としての存在となった[2]。
半年足らずの教皇在任中には、フランシスコ会からのスピリトゥアル派の独立を認めている。13世紀中葉にフィオーレのヨアキムの著作の影響が聖者アッシジのフランチェスコが創設したフランシスコ会におよび、13世紀後半に入ると北イタリアや南フランスでは、ヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった。この一派が厳格派ないし心霊派と称し、その主張をスピリトゥアル主義と呼んでいる。北イタリアのスピリトゥアル派は1280年以降フランシスコ会内部で弾圧を受けていたが、ケレスティヌス5世はこれを認め「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」から独立する。 ケレスティヌス自身、不本意な形での教皇での擁立であり、なおかつ政争の具として利用された格好でもあり、本人にとっては一種の災難であった[3]。在位数か月にしてケレスティヌス5世は、自ら「教皇の器にあらず」と述べて退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のベネデット・カエターニ枢機卿に相談した。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ケレスティヌスは自ら「教皇に選ばれた者は、選出を拒否する権利を持つ」という法令を出し、結局半年たらずで教皇を退位した[2]。ここに、存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した[2][注釈 1]。 ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実際のところカエターニ自身が、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎晩のように声を聞かせた上に、教皇を不眠症と神経衰弱に追い込んだ張本人であったと言われている[3]。インドロ・モンタネッリ『ルネサンスの歴史』でも、すべてカエターニ枢機卿の仕組んだことだとして一連のできごとを記述している。 ケレスティヌス5世の退位に伴い、カエターニ枢機卿がボニファティウス8世として即位するも、イタリア貴族のコロンナ家がこの即位に不満を抱くことになった[2]。当初は新教皇ボニファティウス8世の傲慢さが原因だったともいわれているが、ボニファティウス8世の対シチリア政策にも反対しており、ケレスティヌス退位の経緯が教会法に違背しているのではないかと退任の合法性に疑問を呈した[2][注釈 2]。
教皇退位
フモーネ幽閉、最期Opuscula omnia, 1640ニッコロ・ディ・トンマーゾによるSt Peter Celestine像