ケレイト
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1196年春、タタル部の族長メグジン・セウルトゥらが金朝の議に従わないということで、皇帝の命を受けた右丞相の完顔襄(王京丞相)が軍勢を率いてタタル討伐を始めた。これを聞いたテムジンは父の仇を討つ絶好の機会と考え、同盟者であるトオリル・カンとともにタタルのメグジン・セウルトゥの所へ攻め入った。メグジン・セウルトゥは砦を築いて籠城していたが、テムジンらに捕えられ、その場で殺害された(ウルジャ河の戦い)。これを聞いた完顔襄は大いに喜び、テムジンに「ジャウト・クリ」という称号を、トオリル・カンには「オン(王)」という称号を与え、以来トオリル・カンはオン・カン(Ong Kh?n)と呼ばれるようになった。

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テムジンとの亀裂

1197年、オン・カン、テムジン同盟軍はメルキト部族へ遠征し、勝利を得た。この時テムジンは戦利品をすべてオン・カンに渡した。テムジンの援助によって窮地から脱したオン・カンは1198年、テムジンに相談することなく再びメルキト部へ遠征するほどの兵力を集めることができた。オン・カンはメルキト部をブウラ・ケエルの地で破り、メルキトの部族長トクトア・ベキの子のトグズ・ベキを殺し、その子のチラウン、弟のクドを捕え、その家族と家畜を奪ったが、テムジンにはこれらの戦利品を何一つ分け与えなかった。

1199年、オン・カンとテムジンはナイマン部族に向かって進軍した。同盟軍はナイマン部の内紛に乗じてナイマン王ブイルク・カンを攻め、多くの捕虜と家畜を手に入れた。時に共に行動していたモンゴル・ジャディラト氏族のジャムカはテムジンを妬み、オン・カンを誘い込んでテムジンを裏切った。テムジンはサアリ・ケエルへ撤退したが、これを見ていたナイマンの将のサブラクはオン・カンを追撃し、その弟のビルカとジャカ・ガンボ(ケレイテイ)の家族と家畜と輜重を奪い、ケレイトの領土に侵入して略奪を行った。オン・カンは息子のイルカ・セングンを敵軍にあたらせ、一方でテムジンに使者をやって援助を乞うた。テムジンは裏切られたにもかかわらず、援軍を向かわせてナイマン軍を潰走させ、奪われていたものをすべてオン・カンに返してやった。

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オン・カンの最期

1200年、オン・カンとテムジンはモンゴル部のタイチウト氏族を攻撃するためサアリ平原で会見した。同盟軍はタイチウト氏族へ攻撃を仕掛け、その首領のクドダルとタルグタイ・キリルトクを破り、ウレンウト・トラスという地で捕えて殺した。その冬、オン・カンの弟のジャカ・ガンボと4人のケレイト部将がオン・カンを殺害しようと企てていたが、オン・カンに知られたため、ジャカ・ガンボたちはナイマン部へ逃亡した。

1202年、テムジンとオン・カンはタタル部を討ち、続いてメルキト、ナイマン、タタル、ドルベンカタキンサルジウトオイラト連合軍を討った頃、流浪の末ジャムカがオン・カンを頼ってきた。テムジンは敵対するジャムカを匿ったオン・カンを非難し、ジャムカはイルカ・セングンを言いくるめてテムジンを殺そうとした。

1203年、遂にテムジンとケレイトとの間で戦闘が起き、両者は完全に不和となった。秋、テムジンはオン・カン父子をチェチェエル・ウンデュル山のふもとで奇襲し、激戦の末オン・カンは敗走し、ナイマン部の領土を通過した際、オン・ウスンという地でナイマンの国境警備の将校によって殺された。国境警備の将校らはその首をナイマン王に送ったが、ナイマン王はオン・カンを殺したことに怒り、そのどくろを銀の器の中に入れて保存した。息子のイルカ・セングンはブリ・トベット地方へ亡命できたが、しばらくして彼の略奪行為がこの地方の住民の憎悪をかきたてたので、カシュガルホータンの諸州に隣接するクーシャーン地方へ逃れたが、クサト・チャル・カシュメという地で捕えられてそこの領主カラジ族のスルターン・キリジ・カラによって処刑された。

こうしてケレイト部族はテムジンのモンゴル部族によって征服された。

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モンゴル帝国以降のケレイト

1206年にテムジンがチンギス・カンとして即位しモンゴル帝国が成立した後も、ケレイト部はチンギス一門の姻族とされ、モンゴル遊牧部族連合の有力部族のひとつとして存続した。

チンギス・カンの四男のトルイの夫人でカアンモンケクビライの母となったソルコクタニ・ベキはジャカ・ガンボの娘で、オン・カンの姪にあたる。イルハン朝の開祖フレグ・ハンの正妻もケレイト出身のドクズ・ハトゥンで、イルハン朝下の西アジアで時期によってはキリスト教徒が優遇されるなどモンゴル王家のキリスト教徒に対する好意的な姿勢は、ケレイトの王族・貴族を通じてモンゴル帝国の王族・貴族に数多くのキリスト教徒が含まれていたことと無関係ではないと言われている。

また、ケレイト部族出身者で、モンゴル帝国のもとで軍人、官吏として活躍した者も少なからず歴史にあらわれる。例えば、オゴデイのときに書記官(ビチクチ)の長官として活躍したチンカイは出自について諸説あるが、ケレイト出身とする説が存在する。

モンゴル高原においてはケレイト部族の名はモンゴル帝国の解体とともにやがてその名は歴史から姿を消した。ただし、15世紀以降のオイラト部族連合に属し、現在も存続しているトルグート部はケレイトの後裔とされている。

一方、モンゴル帝国の拡張とともに中央ユーラシア全域に拡散したケレイト部族の名は西方ではモンゴル高原よりも長く残り、現在もカザフなど中央アジアテュルク系民族の間にケレイト部族の名を見出すことができる。
居住地

『集史』「ケレイト部族史」には「彼らの住地はオノン、ケルレンであり、モグリスタンの地にある」とある。

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言語系統

ラシードゥッディーンは『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』において、中央ユーラシア草原の遊牧民を大きく四つに分類し、第三類「以前は独立した首長を持っていたが、第二のテュルク部族とも第四のモンゴル部族ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼らと近いテュルク部族」にケレイトを含めている。つまり、テュルク系ではあるが、モンゴル系に近い言語、もしくはテュルク系とモンゴル系の中間に位置する言語であったと推測される。そのため、ケレイトはテュルク系ともモンゴル系ともされている。

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