ケルンはまた、東欧と接触する西欧側の中心地のひとつとして東欧との文化交流において大きな役割を果たした[39]。
ベルギーのブリュージュ等に現存する旧居が世界遺産に登録されていることからも知られているベギン会は俗人と同じように生活し、戒律による共住生活を送ることのない、半聖半俗の修道士・修道女の集まりであったが、「ケルンでは13世紀から14世紀にかけて100前後の宿舎が建てられており、すくなくとも1,000人の未婚女性の収容能力があった」[40]。
1510年頃にはじめて出版されたドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の第79話と80話は、主人公が宿の主人をやりこめる小噺だが、その町がケルンとされている[41]。 三十年戦争後、一時期衰微をみたケルンであったが、その後次第に復興し、19世紀にはケルン大聖堂の増築と完成を見るに到る。ケルン大聖堂の完成の大きな要因はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテも関係した[42]ゴシック様式の見直し、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。しかしこの動きは必ずしも宗教的権力の強化を意味しない。フランス革命後の世俗化傾向は、選帝侯制度の廃止のみならず、宗教領邦としてのケルン大司教座領の廃止に帰着する。以後ケルンは、ライン川流域の一世俗都市として、商業の中心地として繁栄していく。 1794年、ケルンはフランスに占領され、1801年のリュネヴィルの和約で正式に併合された。しかし、1815年のパリ条約でケルンはプロイセンに割譲された。 1848年、エンゲルスとマルクスはケルンで急進的な新聞『新ライン新聞』(Neue Rheinische Zeitung) を発刊した。1880年にケルン大聖堂が完成した。第一次世界大戦の後、1926年までイギリス陸軍ライン軍団に占領された。ヴェルサイユ条約でラインラントの非武装化が定められたため、1917年からケルン市長になったコンラート・アデナウアーは古い城壁を取り払って緑地帯にし、ケルン大学を再建、フォードやシトロエンなど外国企業を誘致し、メッセやドイツ最初のアウトバーンを建設してケルンをドイツ一の産業都市として振興した。 第二次世界大戦に際しては、激しい空爆を受けてケルン市内の9割の建造物が破壊された。1945年3月からは市内に立て篭もって抵抗を続けるドイツ軍とアメリカ合衆国軍との間で激しい市街戦となり、3月5日陥落した。しかし、ケルン大聖堂だけは奇跡的にも完全には崩壊せず、絶望の淵に陥っていた市民に希望を持たせた。その後ケルンは復興を果たし、今日へと至る。2015年にはケルン大晦日集団性暴行事件が起きドイツに衝撃を与えた[43][44]。 国別の海外出身者の人口[45]
近世
近代第二次世界大戦による荒廃
現代
人口統計
出身国人口 (2022)
トルコ58,135
イタリア21,351
ウクライナ13,734
ポーランド9,766
イラク8,631
シリア8,074
ブルガリア7,916
ギリシャ5,841
イラン4,910
セルビア4,837
ルーマニア4,786
ロシア4,651
スペイン4,057
ボスニア・ヘルツェゴビナ3,830
クロアチア3,539
ポルトガル3,463
フランス3,043
アフガニスタン2,720
コソボ2,586
オランダ2,523
モロッコ2,418
オーストリア2,394
中国2,328
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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