15世紀中頃、人文学者エネア・シルヴィオ(Enea Silvio de’ Piccolomini 1405-1464;1458年からローマ教皇ピウス2世)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(在位1440-1493)の政治顧問としてドイツに滞在中、ケルン等の諸都市を見学し、その「経済活動の活発さや市民生活の繁栄」に驚いている[33]。中世の「都市には、都市年代記に関心を寄せる、読み書きのできる広範な読者層が誕生した。この文学的な興味を満たすものに、例えばケルンのいわゆる『ケールホフ年代記』があった」[34]。
ローマ軍営都市としてのケルンは、帝政末期にローマ軍の撤退とともに衰亡し、中世都市ケルンは司教座教会を中心に成立するが、その周辺に市民集落が生まれるのは9世紀ごろで旧ローマ城壁内の半分の地域を占めていた。10世紀には旧ローマ城壁内の全域とライン川沿いの地域にまでそれが広がったが、後者の地に居住する商人は市民相手の商売ではなく北洋商業に活躍していた。対外商業の発展に伴い、市民集落は焼いた餅のように膨張し、12世紀初めにそれを囲む第1次中世城壁(周壁環)の建設が行われた。さらに12世紀末にはそれの外側に第2の城壁(周壁環)が建設され、そこに含まれる面積(400ヘクタール)[35] は旧ローマ市域の4.5倍となった。この市域は18世紀までさしたる発展はなかった[36]。
ケルンの画家の優秀さを示唆する記述が、13世紀初めに活躍したヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩『パルチヴァール』にみられるが[37]、とくに14-15世紀には、優れた美術作品(今日においても教会や美術館で鑑賞できる)が生まれ、なかでもシュテファン・ロッホナー(Stephan Lochner)はドイツゴシック絵画の最高傑作を産み出したと言われる[38]。
ケルンはまた、東欧と接触する西欧側の中心地のひとつとして東欧との文化交流において大きな役割を果たした[39]。
ベルギーのブリュージュ等に現存する旧居が世界遺産に登録されていることからも知られているベギン会は俗人と同じように生活し、戒律による共住生活を送ることのない、半聖半俗の修道士・修道女の集まりであったが、「ケルンでは13世紀から14世紀にかけて100前後の宿舎が建てられており、すくなくとも1,000人の未婚女性の収容能力があった」[40]。
1510年頃にはじめて出版されたドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の第79話と80話は、主人公が宿の主人をやりこめる小噺だが、その町がケルンとされている[41]。 三十年戦争後、一時期衰微をみたケルンであったが、その後次第に復興し、19世紀にはケルン大聖堂の増築と完成を見るに到る。ケルン大聖堂の完成の大きな要因はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテも関係した[42]ゴシック様式の見直し、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。しかしこの動きは必ずしも宗教的権力の強化を意味しない。フランス革命後の世俗化傾向は、選帝侯制度の廃止のみならず、宗教領邦としてのケルン大司教座領の廃止に帰着する。以後ケルンは、ライン川流域の一世俗都市として、商業の中心地として繁栄していく。 1794年、ケルンはフランスに占領され、1801年のリュネヴィルの和約で正式に併合された。しかし、1815年のパリ条約でケルンはプロイセンに割譲された。 1848年、エンゲルスとマルクスはケルンで急進的な新聞『新ライン新聞』(Neue Rheinische Zeitung) を発刊した。1880年にケルン大聖堂が完成した。第一次世界大戦の後、1926年までイギリス陸軍ライン軍団に占領された。ヴェルサイユ条約でラインラントの非武装化が定められたため、1917年からケルン市長になったコンラート・アデナウアーは古い城壁を取り払って緑地帯にし、ケルン大学を再建、フォードやシトロエンなど外国企業を誘致し、メッセやドイツ最初のアウトバーンを建設してケルンをドイツ一の産業都市として振興した。 第二次世界大戦に際しては、激しい空爆を受けてケルン市内の9割の建造物が破壊された。1945年3月からは市内に立て篭もって抵抗を続けるドイツ軍とアメリカ合衆国軍との間で激しい市街戦となり、3月5日陥落した。しかし、ケルン大聖堂だけは奇跡的にも完全には崩壊せず、絶望の淵に陥っていた市民に希望を持たせた。
近世
近代第二次世界大戦による荒廃
現代