ケルン
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ケルンには4世紀(313年?)[13] に司教座がおかれ、のち8世紀末には大司教座が置かれることとなる[14]。6世紀末から13世紀末までケルン司教(ケルン大司教)はフランク王国・東フランク王国・神聖ローマ帝国の宮廷と密接な関係を維持した[13]

10/11世紀、ドイツ西部の貿易の中心地ケルンの商人は、ゾーストドルトムントを起点とし、エルベ川流域のバルドヴィーク(ドイツ語版)(Bardowick)やマクデブルクに通じる「ヘルヴェーク(ドイツ語版)」(Hellweg)とよばれる貿易ルートにおいて活躍した[15]

西欧中世都市の重要な仲間団体的組織のひとつ「ギルドには、商人と商人以外の都市上層民が加入しており、通常、ひとつの都市にそのようなギルドがひとつあった。三つのギルドがあったケルン(呉服商兄弟団、大青商人聖ヤコブ兄弟団、ワイン商人兄弟団)は、例外中の例外である」[16]。1074年、ケルンには豊かな商人が600人いたと記録されている[17]

大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教に帰属する宗教領邦となった。大司教座附属学校(Domschule)がおかれたケルンは、政治のみならず文化の中心となる。特にドミニコ会がおいたケルン大司教管区の神学大学(studium generale et solemne;1248年設立)ではアルベルトゥス・マグヌスマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義し、スコラ学最大の神学者となるトマス・アクィナスなどが学んだ。マイスター・エックハルトによってケルンはドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなる。上記両校を母体に1388年には市のイニシアティブでケルン大学が創立された[18]

市と大司教の間の関係は常に良好であったわけではなく、1074年には両者の間に発生した衝突により、大司教は市から逃亡せざるをえない事態に陥っている[19]。一方、市としてはその自立性の確立を目指し、都市印章(Stadtsiegel)を制定し(最も古い使用例1149年)、市の上層部が市の統治のために使用する施設(Burgerhaus)を設立した(1130年ころの文書)[20]。そして、 13世紀に入ると両者間の緊張関係は先鋭化し、1288年のヴォリンゲン(Worringen)の戦闘でケルン大司教が敗北すると、ケルン市は大司教の「優位」(Vormachtstellung)を最終的に排除し、大司教は拠点都市としてのケルンを失い、 ボンとブリュールが拠点都市としての機能を不十分ながら果たすことになった[21] 。1475年には自由帝国都市(Freie Reichsstadt)と認められた[18]

ケルンで政治的・社会的に指導的役割を果たしたのが、ドイツ最古にして最強の門閥組合(Patriziergesellschaft)たるケルンの「リッヒャーツェッヒェ(ドイツ語版)」(Richerzeche; A.Glierによると、文字通りには>Bruderschaft der Reichen<[22]、邦語では「富者兄弟団、富者クラブ」ほどの意味、現代ドイツ語の感覚では「富者の酒盛り」)である。「それはすでに12世紀に成立し、14世紀末まで一時は突出した権勢を誇っていた。すなわち市長、参事会員、参審人をメンバーに擁し、そのことにより参事会・参審人団を牛耳り、都市役人の人事を決定した」[23]。しかし、中世末期1369年以降この門閥組合も、門閥間の争いを繰り返すうち次第に勢力を失い[24]、ついに1396年には参事会員が22個のガッフェル(Gaffel)によって選ばれる状態になった。ガッフェルは本来商人の組合(Kaufleutekorporation)であったが、のちにツンフト(Zunft)や自由な会員もその構成員となった[25]

ケルンは繊維工業、皮革工業、金属加工業の中心地であった。繊維製品では、絹織物や毛織物、金属加工では、刀剣、胸甲等を生産し、1395年には122人もの金細工師・金箔師がいた[26]。金属加工業における関連職種の細分化は著しく、「12世紀の段階で約70あった職種のうち12種、14世紀末には約170種のなかで40近くを占めていた」[27]。そのうち、都市当局が公認していたツンフトは61職種であった[28]。金属加工品は東欧へも輸出していた[29]。中世末期ケルンは4万人の人口を擁するドイツ最大の都市であり、女性も産業・商業の分野で大いに活躍した[30]中世末期ケルンの輸出ヒット商品は絹であったが、中国から大量に輸入された生糸を高級な生地に織ったのは女性のツンフト(職人組合)であった[31]。その石像が今日ケルン市庁舎の塔を飾っているde:Fygen Lutzenkirchenは、そのような成功した女性ツンフトの象徴的存在である [32]

15世紀中頃、人文学者エネア・シルヴィオ(Enea Silvio de’ Piccolomini 1405-1464;1458年からローマ教皇ピウス2世)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(在位1440-1493)の政治顧問としてドイツに滞在中、ケルン等の諸都市を見学し、その「経済活動の活発さや市民生活の繁栄」に驚いている[33]。中世の「都市には、都市年代記に関心を寄せる、読み書きのできる広範な読者層が誕生した。この文学的な興味を満たすものに、例えばケルンのいわゆる『ケールホフ年代記』があった」[34]

ローマ軍営都市としてのケルンは、帝政末期にローマ軍の撤退とともに衰亡し、中世都市ケルンは司教座教会を中心に成立するが、その周辺に市民集落が生まれるのは9世紀ごろで旧ローマ城壁内の半分の地域を占めていた。10世紀には旧ローマ城壁内の全域とライン川沿いの地域にまでそれが広がったが、後者の地に居住する商人は市民相手の商売ではなく北洋商業に活躍していた。対外商業の発展に伴い、市民集落は焼いた餅のように膨張し、12世紀初めにそれを囲む第1次中世城壁(周壁環)の建設が行われた。さらに12世紀末にはそれの外側に第2の城壁(周壁環)が建設され、そこに含まれる面積(400ヘクタール)[35] は旧ローマ市域の4.5倍となった。この市域は18世紀までさしたる発展はなかった[36]


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