ケルン
[Wikipedia|▼Menu]
ゲーテはケルンのカーニヴァルへの招待に応じられなかったが、陽気な詩『ケルンの仮装行列 1825年謝肉祭』(Der Colner Mummenschanz Fastnacht 1825)を献呈している[6]
地理

ライン川の河畔に位置しており、古代以来陸上、水上交通の要衝である。重工業が発展する一方で、オーデコロンの生産地でもある。近隣の都市としては、約25キロ南にボン、10キロ北にレーヴァークーゼン、35キロ北にデュッセルドルフが位置する。空港はケルン・ボン空港西ドイツ首都だったボンと共用している。
気候

ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。

ケルン・ボン空港(1981-2010年、極値1981年-)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)16.2
(61.2)20.7
(69.3)25.0
(77)29.0
(84.2)34.4
(93.9)36.8
(98.2)37.3
(99.1)38.8
(101.8)33.1
(91.6)27.6
(81.7)20.2
(68.4)16.6
(61.9)38.8
(101.8)
平均最高気温 °C (°F)5.4
(41.7)6.7
(44.1)10.9
(51.6)15.1
(59.2)19.3
(66.7)21.9
(71.4)24.4
(75.9)24.0
(75.2)19.9
(67.8)15.1
(59.2)9.5
(49.1)5.9
(42.6)14.8
(58.6)
日平均気温 °C (°F)2.6
(36.7)2.9
(37.2)6.3
(43.3)9.7
(49.5)14.0
(57.2)16.6
(61.9)18.8
(65.8)18.1
(64.6)14.5
(58.1)10.6
(51.1)6.3
(43.3)3.3
(37.9)10.3
(50.5)
平均最低気温 °C (°F)?0.6
(30.9)?0.7
(30.7)2.0
(35.6)4.2
(39.6)8.1
(46.6)11.0
(51.8)13.2
(55.8)12.6
(54.7)9.8
(49.6)6.7
(44.1)3.1
(37.6)0.4
(32.7)5.8
(42.4)
最低気温記録 °C (°F)?23.4
(?10.1)?19.2
(?2.6)?12.0
(10.4)?8.8
(16.2)?2.2
(28)1.4
(34.5)2.9
(37.2)1.9
(35.4)0.2
(32.4)?6.0
(21.2)?10.4
(13.3)?16.0
(3.2)?23.4
(?10.1)
降水量 mm (inch)62.1
(2.445)54.2
(2.134)64.6
(2.543)53.9
(2.122)72.2
(2.843)90.7
(3.571)85.8
(3.378)75.0
(2.953)74.9
(2.949)67.1
(2.642)67.0
(2.638)71.1
(2.799)838.6
(33.016)
平均月間日照時間54.078.8120.3167.2193.0193.6209.7194.2141.5109.260.745.31,567.5
出典:Data derived from Deutscher Wetterdienst[7][8]

歴史
古代

紀元前39年、ローマとの合意に基づき、親ローマのゲルマニア人部族ウビイイ族がライン川の西岸に入植した。その入植地オッピドゥム・ウビオールム(ラテン語: Oppidum Ubiorum, ウビイイ人の町)またはアラ・ウビオールム(ラテン語: Ara Ubiorum)は、ローマ軍宿営地となり、ゲルマニア州におけるローマの拠点となった。

紀元50年、皇帝クラウディウスの妻アグリッピナは、自分の出生地オッピドゥム・ウビオールムをローマ植民市(コロニア)に格上げするよう、要望した。こうしてコロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシス(ラテン語: Colonia Claudia Ara Agrippinensium)またはコロニア・アグリッピネンシス(ラテン語: Colonia Agrippinensis)がおかれた[9]。後にこの地名はアグリッピネンシスの部分は省略されるようになりコロニアと呼ばれ現名の語源となった。

アウグスタ・トレヴェロールム(ラテン語: Augusta Treverorum、現トリーア)に次ぎ、ローマ帝国のゲルマニア支配の拠点として重要な地位を占めたケルンには、多くのローマ遺跡が見られる。80年には水道橋が建設された。1世紀末には、アグリッピネンシスは属州下ゲルマニアの首都となった。「1世紀の半ば、下ゲルマーニアの中心地であるケルンでは芸術陶器の製造が、同世紀の末にはテラコッタの製造が始まる」(エネン)[10]。同じく1世紀まで遡るガラス工業の分野では、2世紀末に香水の瓶が製造されている。長糸ガラス製造では、豪華な長糸ガラス台のついた、取っ手付きの大きなグラスも製造された。3・4世紀には優れた研磨ガラス製品も生まれている。「現存する網状穿孔ガラスの中で最も美しいものが4世紀初期のある墓の中で発見された」(エネン)[11]。この当時の人口は4万5千人ほどであった。

355年から、サリー・フランク族フランク族に属するサリ族)が10年の間ケルンを包囲した。455年リプアリウス・フランク族(英語版)は最終的にケルンを落とし、これを首都とした。481年クローヴィス1世がフランク族を統一し、メロヴィング朝フランク王国が成立、首都はトゥルナカム(ラテン語: Tornacum, 現トゥルネー)。フランク王国 メロヴィング朝においてケルンは、「王の居所として際立った都市」の一つであり、その場合、ローマの軍団本営プレトリウム(Praetorium)が利用された[12]
中世30年戦争でスウェーデン軍の攻撃を受ける

ローマからはキリスト教も早くから伝播した。ケルンには4世紀(313年?)[13] に司教座がおかれ、のち8世紀末には大司教座が置かれることとなる[14]。6世紀末から13世紀末までケルン司教(ケルン大司教)はフランク王国・東フランク王国・神聖ローマ帝国の宮廷と密接な関係を維持した[13]

10/11世紀、ドイツ西部の貿易の中心地ケルンの商人は、ゾーストドルトムントを起点とし、エルベ川流域のバルドヴィーク(ドイツ語版)(Bardowick)やマクデブルクに通じる「ヘルヴェーク(ドイツ語版)」(Hellweg)とよばれる貿易ルートにおいて活躍した[15]

西欧中世都市の重要な仲間団体的組織のひとつ「ギルドには、商人と商人以外の都市上層民が加入しており、通常、ひとつの都市にそのようなギルドがひとつあった。三つのギルドがあったケルン(呉服商兄弟団、大青商人聖ヤコブ兄弟団、ワイン商人兄弟団)は、例外中の例外である」[16]。1074年、ケルンには豊かな商人が600人いたと記録されている[17]

大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教に帰属する宗教領邦となった。大司教座附属学校(Domschule)がおかれたケルンは、政治のみならず文化の中心となる。特にドミニコ会がおいたケルン大司教管区の神学大学(studium generale et solemne;1248年設立)ではアルベルトゥス・マグヌスマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義し、スコラ学最大の神学者となるトマス・アクィナスなどが学んだ。マイスター・エックハルトによってケルンはドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなる。上記両校を母体に1388年には市のイニシアティブでケルン大学が創立された[18]

市と大司教の間の関係は常に良好であったわけではなく、1074年には両者の間に発生した衝突により、大司教は市から逃亡せざるをえない事態に陥っている[19]。一方、市としてはその自立性の確立を目指し、都市印章(Stadtsiegel)を制定し(最も古い使用例1149年)、市の上層部が市の統治のために使用する施設(Burgerhaus)を設立した(1130年ころの文書)[20]。そして、 13世紀に入ると両者間の緊張関係は先鋭化し、1288年のヴォリンゲン(Worringen)の戦闘でケルン大司教が敗北すると、ケルン市は大司教の「優位」(Vormachtstellung)を最終的に排除し、大司教は拠点都市としてのケルンを失い、 ボンとブリュールが拠点都市としての機能を不十分ながら果たすことになった[21] 。1475年には自由帝国都市(Freie Reichsstadt)と認められた[18]

ケルンで政治的・社会的に指導的役割を果たしたのが、ドイツ最古にして最強の門閥組合(Patriziergesellschaft)たるケルンの「リッヒャーツェッヒェ(ドイツ語版)」(Richerzeche; A.Glierによると、文字通りには>Bruderschaft der Reichen<[22]、邦語では「富者兄弟団、富者クラブ」ほどの意味、現代ドイツ語の感覚では「富者の酒盛り」)である。「それはすでに12世紀に成立し、14世紀末まで一時は突出した権勢を誇っていた。すなわち市長、参事会員、参審人をメンバーに擁し、そのことにより参事会・参審人団を牛耳り、都市役人の人事を決定した」[23]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:119 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef