ケルンテン公国
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ハプスブルク家

ルドルフはオタカルを撃退してローマ王に即位すると、ケルンテンをゲルツ伯(ゴリツィアチロル伯)マインハルト2世に与えた。1335年にこの家系の最後の男子であるハインリヒ6世が死去すると、皇帝ルートヴィヒ4世は1335年5月2日リンツにて、ケルンテン公領とチロル南部をハプスブルク家に帝国の封土として与えた。この時から1918年まで、ハプスブルク家がケルンテン公国の支配者となった。ハプスブルク家のその他の構成国・地域と同様、ケルンテンは長きにわたって自前の根本的な構造を持つ半ば自治国家であった。ハプスブルク家は、1379年のノイベルク条約の際と、1564年の2度、一族のうちで領土を分割した。そのどちらの時も、ケルンテン公国はインナーエスターライヒ(内オーストリア)の一部となり、シュタイアーマルク公国クライン公国と合同で治められていた。

女帝マリア・テレジアと皇帝ヨーゼフ2世は、より単一化されたハプスブルク国家を創設しようと試みた。そして1804年、ケルンテン公国はオーストリア帝国へ統合された。1867年、ケルンテンはオーストリア=ハンガリー帝国の西部チスライタニア(Cisleithen、現在のオーストリアの部分)の皇帝直轄領となった。

数世紀にわたって、ケルンテン南部ではスロベニア語に代わってドイツ語が浸透した。しかし16世紀にケルンテンの諸侯が、ケルンテンをウィンド大公国、すなわちスロベニア人の大公国と呼んでいたという事実から、ケルンテン人が自身の古い、ゲルマン人以前のルーツに気づいていたことがわかる。
20世紀

第一次世界大戦の終結とオーストリア=ハンガリー帝国解体がサン=ジェルマン条約で決まると、ケルンテン公領カナルタール谷のうち、タルフィスからポンタフェルまでの地域がイタリアへ、メジャ谷、ウンタードラウブルク(のちにスロベニア語名のドラヴォグラードへ改名)周辺のドラヴァ川谷、ゼーラント一帯のスロベニア語地域がセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)へ割譲された。しかしユーゴスラビア王国は、かつてのケルンテン公領のこれらの地域を得ただけでは満足せず、公国の首都クラーゲンフルトを含むカラヴァンケン山地北部の土地も占領した。小協商諸国は2回に分けて住民投票を行うことを決定した。まず、1920年10月10日にケルンテン国民投票が行われ、その運命が決まった。オーストリア帰属賛成という結果により、サン=ジェルマン条約で既に決められていた国境は変更されなかった。

ケルンテン公国のオーストリアへ帰属した部分は、現在連邦州の一つケルンテン州となっている。イタリアへ割譲した部分は、現在フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州に属しており、ケルンテン公国の大部分を占めるユーゴスラビア王国へ併合された部分は現在スロベニアコロシュカ地方を構成している。
歴代のケルンテン公

カッコ内は在任年を示す
諸家交代時代
ルイトポルト家


ハインリヒ1世(976年 - 978年) バイエルン公(983年 - 985)

ザーリアー家


オットー1世老公(978年 - 985年)

ルイトポルト家


ハインリヒ1世(985年 - 989年、再位)

リウドルフィング家


ハインリヒ2世(989年 - 995年) バイエルン公(985年 - 995年)

ハインリヒ3世(995年 - 1002年) バイエルン公(995年 - 1005年)、ローマ王(1002年 - 1024年)

ザーリアー家


オットー1世老公(1002年 - 1004年、再位)

コンラート1世(1004年 - 1011年)

エッペンシュタイン家


アダルベロ(1011年 - 1035年)

ザーリアー家


コンラート2世若公(1036年 - 1039年)

ハインリヒ4世(1039年 - 1047年) バイエルン公(1026年 - 1041年)、神聖ローマ皇帝(1046年 - 1056年)

古ヴェルフ家


ヴェルフ3世(1047年 - 1055年)

エッツォ家


コンラート3世(1056年 - 1061年)

ツェーリンゲン家


ベルトルト2世(1061年 - 1077年)

エッペンシュタイン家


リウトルト(1077年 - 1090年)

ハインリヒ3世(1090年 - 1122年)

シュポンハイム家

ハインリヒ4世(1122年 - 1123年)

エンゲルベルト(1123年 - 1134年)

ウルリヒ1世(1134年 - 1144年)

ハインリヒ5世(1144年 - 1161年)

ヘルマン(1161年 - 1181年)

ウルリヒ2世(1181年 - 1201年)

ベルンハルト(1199年から摂政、1202年から1256年まで公)

ウルリヒ3世(1256年 - 1269年)

プシェミスル家


オタカル2世(1269年 - 1276年) ボヘミア王(1253年 - 1278年)

ハプスブルク家


ルドルフ1世(1276年 - 1286年) ローマ王(1273年 - 1291年)

ゲルツ伯家

マインハルト(1286年 - 1295年)

ハインリヒ6世(1295年 - 1335年、兄弟と共同統治) ボヘミア王(1306/1307年 - 1310年)

ルートヴィヒ(1295年 - 1305年)

オットー3世(1295年 - 1310年)


ハプスブルク家

オットー4世 (1335年 - 1339年、兄弟と共同統治)

アルブレヒト2世(1335年 - 1358年)


フリードリヒ3世(1358年 - 1362年、兄弟と共同統治)

ルドルフ2世(1358年 - 1365年)


アルブレヒト3世 (en)  (1365年 - 1395年)


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