ケルト人
[Wikipedia|▼Menu]
紀元前400年頃にはマケドニア金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服。ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻した。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランススペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服される。カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献である。やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していく。
ブリテン諸島

ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。

西暦1世紀にイングランドウェールズはローマの支配を受け、この地方はローマ化するが、5世紀ゲルマン人ガリアに侵入すると、ローマ帝国ブリタンニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。

しかし、同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残存した。スコットランドアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域であると言われていたが、実は、ローマと直接交流していた形跡が見つかっている。

ギリシャ人とローマ人は、島のケルト人を「背が高く金髪あるいは赤みのかかった髪で肌が白い」と表現していた。しかし、現代の大陸のケルト人はどちらかというと背が低く浅黒い肌の人が多い。これは大陸のケルトと島のケルトが同じ文化と言語を共有しているものの生物学的には同一ではないことを示している[1]
宗教

当初の宗教自然崇拝多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。ドルイドの予言の儀式では人身供犠が行われていることを、多くの古典古代の著述家たちが記述している[2]。ドルイドの教義では現世と来世は連続的であるとされ、ケルト人は輪廻転生と霊魂の不滅を信じていた[3]。ポンポニウス・メラやユリウス・カエサルは、ケルト人の戦いにおける勇敢さや人命への軽視とケルト人の死生観を結びつけて考えた。

また、アイルランドには人頭崇拝の風習があった。人の頭部は魂の住処となる神性を帯びた部位であり、独自に存在し得るものと考えた[4]。敵の首級を所有することでその人物の人格や魂を支配できると信じ、戦争で得られた首級は門などの晴れがましい場所に飾られたり、神殿への供物や家宝として扱われた。ケルト芸術には人頭のモチーフが多くみられ、アイルランドではキリスト教改宗後も教会や聖所の装飾に多くの人頭があしらわれている。

ブリテン島では、4世紀にはキリスト教が根づいた。その後、ヴァイキングの侵入やノルマン・コンクエストの影響で、ケルト人キリスト教はしだいに一時衰退した。

アイルランドでは、6世紀末?8世紀初めにキリスト教化する方針が取られた。アイルランドでのキリスト教は、9?10世紀のヴァイキングの侵入によって衰退した。
文化鉄器時代のケルトの銀器 (グンデストルブの大鍋)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef