リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ、左側に妻のジャクリーン・ケネディ、その前列の右側にテキサス州知事ジョン・コナリー、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンが乗車した[注釈 4]。 日本の佐々淳行は、ケネディ側がこのリムジンへのバブルトップ(透明なルーフ)設置を拒否したことが暗殺成功の要因だとしたが[3]、この当時のバブルトップとは、雨を防ぐためだけのプラスチック製シールドで[4]、防弾ではなかった[5]。11月22日の午前中、ダラスは雨の心配もなく晴れ渡ったので、バブルトップで雨を防ぐ用意をする必要がなかった[6]。 ラブフィールド空港からのパレードには合計12台[注釈 5] の車が参加して、車列の先頭が先導する白バイで次にシークレット・サービスだけが乗った車で、その次が大統領夫妻が乗ったリンカーン・コンチネンタル、その後ろに再びシークレット・サービスが乗った車、そしてその次にジョンソン副大統領とレディバード夫人が乗った車を中心にパレードの車列は11時50分にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を時速16キロメートル(時速10マイル)前後のスピードを保ったまま、ダラス・トレードセンターに向かってゆっくりと進んだ[7]。 ダラスの至る所、ルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために2度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に1人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。しかし全体としては歓迎ムードで、後にコナリー知事は「心からの温かさ、理解、敬意を示す大変な数の市民が繰り出していた。大統領もジャクリーン夫人も心から喜んでいる様子であった。」と語っている。ネリー夫人は大統領の方を振り返り「これでもうダラスがあなたを歓迎していないって、おっしゃらないでしょうね[注釈 6]」と言うと大統領は「もちろん。考えていませんとも[注釈 7]」と答えている[8]。 これがジョン・F・ケネディの生涯最後の言葉となった。 12時30分にケネディのリムジンはメイン通りからディーリー・プラザに入って右折し、ヒューストン通りをテキサス教科書倉庫ビルの正面にゆっくり進んだ。そして次にリムジンはゆっくりと左折して、エルム通りに入り、教科書倉庫ビルからわずか20メートル離れた位置に達した。 リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫ビルの前を通過し、緩やかな下り坂をブレーキを掛けて速度を落としながら走行(この時のシークレットサービスの運転は明らかに護衛対象を危険に晒すものであった[要出典]。)するという絶好の機会を利用したかのように立て続けの発砲音が轟き、およそ6 - 9秒[要出典]の間にケネディは狙撃された。狙撃の間リムジンの速度は時速14キロメートル(時速9マイル)[要出典]から時速21キロメートル(時速13マイル)[要出典]であった。ウォーレン委員会はその後、3発の銃弾の内1発は車列を外れ、1発がケネディの頸部に命中、貫通のうえコナリーを負傷させ、最後の1発がケネディの頭部に命中し、致命傷を与えたと結論を下した。全ての委員がケネディに2発の銃弾が命中し、頭部への被弾で死亡したことを認めている[注釈 8]。 犯人が最初の第1発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後にクラッカーかアフターファイアーが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を開き胸に当てて頭を下向きにして苦しい顔になり、ジャクリーン夫人は一瞬何が起こったのか判らず、大統領の顔を覗き込んだ。その前列では撃たれたコナリー知事
ルーフのないリムジン
市内パレード暗殺事件現場のディーリー・プラザ。パレードの方向は黒の矢印、黄色い四角が犯人がいたとされる教科書倉庫ビル、黄色いバツ印2か所が狙撃された地点
狙撃ザプルーダー・フィルムより白黒で複写された、ケネディ大統領に最初の銃弾が命中した瞬間のコマ。ケネディは被弾した喉を手で押さえている。狙撃直後、後方の護衛車からリムジンに飛び移るシークレット・サービスのクリント・ヒル
ケネディに命中した第2発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。ジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方のトランクに這い出た(この時、夫人はトランクに飛び散ったケネディの頭部の骨片を手にしており、病院到着後に医師に渡している)。1発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが夫人が這い出るのとほぼ同時にリンカーン・コンチネンタルに追いつき[注釈 11]、トランクに飛び乗って夫人を座席に押し戻し、パークランド記念病院へ向かうよう、大統領専用車の前席にいたケラーマンが運転手に指示した[13]。
テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている[注釈 12]。この広場の道路をパレード中の大統領が市民の目前で撃たれてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを多くの市民が見て、エルム通りはパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていった。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。 大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている[注釈 13]。2発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。狙撃の瞬間をたまたま8mmフィルムで撮影していたエイブラハム・ザプルーダーのいわゆるザプルーダーフィルムの映像(後述)では、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。 ただし、ザプルーダーフィルムのコマ番号313では血しぶきなどの飛沫は前方に飛び散っているとされている一方、大統領夫妻の乗る車の左後方にバイクで張り付いていた警官は、砕かれた脳の欠片と血しぶきを浴びて横転しそうになったと証言している。 ジャクリーン夫人は後にウォーレン委員会での証言で「銃撃は2発しかなかったと記憶している」「1発目が当たった時、彼がちょっと訝しげな表情を顔に浮かべていて片手が上がっていた」「2発目で吹き飛ばされた彼の頭蓋骨を押さえようと彼の髪をしっかり押さえて、彼の頭を膝に載せて車内で伏せていた」と述べて、後方に這い出したことは「そのことは全く覚えていない」と説明している[14]。 コナリー知事および知事夫人は1967年のインタビューにて「すべての銃撃は右後ろから発射された。 1967年6月26日テレビのインタビューで「私は弾道の専門家ではありませんが、もし右耳から(グラッシーノールの柵から)発砲があったなら、違う音が聞こえると思います。私は銃声が--方向はわかりませんが--テキサス教科書倉庫から撃ち込まれたのを聞きましたが、どれも同じような音でした。音にまったく違いがないんです。
大統領の被弾
夫人の証言
コナリー知事夫妻の証言
ザプルーダーの証言