ケニア共和国(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。
首都のナイロビはアフリカ大陸有数の世界都市で、国際連合環境計画と国際連合人間居住計画の本部が置かれている。 正式名称はスワヒリ語で「Jamhuri ya Kenya」[注釈 1]、英語では「Republic of Kenya」[注釈 2]。日本語での表記はケニア共和国。通称「ケニア」。「ケニヤ」とも表記する。国名はアフリカ大陸で二番目に高いケニア山(5,199メートル[3])に由来する。[4] 紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。 紀元前1000年までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した(en:Bantu expansion 7、8世紀ごろにはアラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までに、ケニア沿岸部にはバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年ごろに明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び、奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。 1828年にはオマーン帝国のスルタンであるサイイド・サイードがモンバサを攻略した。 19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社
国名
歴史詳細は「ケニアの歴史(英語版
クシ語系の民族移動
バンツー系の民族移動
アラブの進出とスワヒリ文明の勃興
オマーン帝国
イギリスの進出イギリス領東アフリカ(1911年)
政治運動の始まり「en:History of the Kenya African National Union」も参照ハリー・トゥクと1920年代の東アフリカ一帯ジェームス・ボータ(右)と息子
1940年、第二次世界大戦でイタリア領東アフリカとの戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。のちにマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたためである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(Kenya African Study Union、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わりケニア・アフリカ同盟(英語版)(KAU)に改組された。 1952年 - 1956年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952年 - 1959年)であった。 反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADU
マウマウ団の乱
独立とケニヤッタ政権ジョモ・ケニヤッタ初代大統領
1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行し、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中の当時「アフリカ社会主義」を掲げて親ソビエト連邦の姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。のちにKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタ政権下でケニアは経済成長を遂げた。 1978年のケニヤッタ死去後、ダニエル・アラップ・モイが第2代大統領に就任した。1982年8月、空軍クーデター未遂事件
モイ政権
1991年に複数政党制を導入。ムワイ・キバキはKANUを飛び出して民主党(DP)を結成。2000年、モイがケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタをKANUの後継者とし、en:The National Allianceと改組された。
1998年8月7日には、首都ナイロビの在ケニアアメリカ合衆国大使館がアルカーイダによって攻撃されるアメリカ大使館爆破事件が発生し、数千名の死傷者を出した。 2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織「国民虹の連合
キバキ政権