グレート・ゲーム
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特に一部の大衆メディアはアフガニスタンの多国籍軍ターリバーンとの戦いを、グレート・ゲームの継承と主張している。
グレートゲーム
第1期
アフガン当時のアフガン情勢描いた風刺漫画(1878年)
アフガンのシール・アリー王を、その「お友達」である熊(ロシア)とライオン(イギリス)が虎視眈々と狙っている。

19世紀初めにイギリス領インド帝国と、ロシア帝国の外延部を隔てる境界線が2000マイルにわたって引かれていた。その多くは地図上に引かれたものではなかった。ブハラヒヴァメルブ遺跡タシュケントという都市は、事実上外部からはどちらのものか分からなかった。ロシア帝国の拡張は、インド亜大陸を占領し優勢を誇るイギリスと衝突する脅威になったので、中央アジア全体で両大帝国は探検、情報活動、帝国主義的外交の微妙なゲームを行った。紛争は常に脅威となったが、両国が直接戦争を行うことにならなかった。この活動の中心はアフガニスタンにあった。

イギリスは、ロシアの拡張が大英帝国の「王冠の宝石」と呼ばれていたイギリス領インド帝国を破壊する脅威になると恐れていた。ツァーリの軍が、あるハーンの領地を侵略し始めたので、イギリスはアフガニスタンがロシアのインド侵攻の拠点になることを恐れた。1838年にイギリスは第一次アングロ・アフガニスタン戦争を始め、シュジャー・シャーの下で傀儡政権を打ち立てようとした。しかし、その統治期間は短命に終わり、英軍の支援が無ければ続かなかった。1842年までに暴徒がカーブルの通りでイギリス人を襲撃していて、イギリスの駐屯部隊は、通行の安全を保証されてカーブルからの撤退に同意した。イギリスには不幸なことに、この保証は反故にされた。撤退するイギリス軍の縦隊は、約4500人の軍人と女性や子供を含めて12000人がいた。非情な攻撃の連続で、数十人を除いて全員が、インドへの撤退中に殺害された。

イギリスはカーブルからの屈辱的な撤退の後、アフガニスタンへの野心を抑えていた。1857年インド大反乱の後、イギリスの政権はいずれもアフガニスタンを緩衝国と見なしていた。しかし、ロシアは1865年までにアフガニスタンに向けて着実に南進を続け、タシュケントが正式に併合された。サマルカンドは3年後にロシア帝国領になり、ブハラの独立は、事実上同年の平和条約で失われた。ロシアの支配は、今やアムダリヤ川の北岸まで拡大していた。

ロシアが1878年にカーブルに在外公館を置いたことで再び緊張が高まった。イギリスはアフガニスタンを統治するシール・アリーが、イギリスの在外公館を受け入れるよう要求した。公館は設置できず、その報復として4万の軍が国境に送られ、第二次アングロ・アフガニスタン戦争が始まった。この第二次戦争はイギリスにとってほとんど第一次の戦争と同じく悲惨なものであった。シール・アリーの打倒には成功したものの、各地で部族の反乱が相次ぎ、損害が拡大した。

イギリスは1879年、王への即位の条件としてムハンマド・ヤアクーブ(英語版)にガンダマク条約(英語版)を結ばせ、アフガニスタンを保護国化した。次いで即位したアブドゥッラフマーン・ハーンにもこれを認めさせると、イギリスは1881年までにカーブルから撤退した。ハーンは自分の地位を強化する一方でイギリスにアフガニスタンの外交政策を維持させることを了承した。何とか非情な手法で国内の暴徒を鎮圧し、中央集権に移行させることができた。

1884年、ロシアのアムダリヤ川北部、メルブ遺跡オアシスへの侵攻に起因して、新たな危機が生じた。ロシアは全部嘗ての支配者の領域だと主張し、Panjdehのオアシスを巡ってアフガニスタンと戦った(パンジェ紛争(英語版))。両強国の戦争の瀬戸際でイギリスはロシアが領有することを受け入れることを決定した。アフガニスタンの頭越しに英露国境画定委員会は双方が譲歩して更に領域を手に入れることは放棄したが、Panjdehの問題は残った。アフガニスタンは広大な領域特にPanjdeh周辺を失ってアムダリヤ川を北の国境線とする合意が形成された。
極東事件当時の生麦村

一方、極東ではイギリスの撒いた種が着実に成長していた。かつてイギリス東インド会社を通商から締め出し、ライバルのオランダ東インド会社に欧州との交易を独占させた徳川幕府が支配するこの国を、イギリスを出し抜いた[要出典]米国が開国させた頃、イギリスも遅ればせながら関係を持つことになった。きっかけは大名行列を横切ったイギリス人達が殺傷された生麦事件だった。その報復のために差し向けた[要校閲]。(薩英戦争)イギリスは鹿児島城下を炎上させたが、イギリス側の艦隊も、油断のせいで旗艦が被弾するという被害を受けた。

これ以降、フランスに傾斜する幕府にかわる友好勢力としてイギリスは薩摩藩に新鋭兵器を提供し、徳川幕府を転覆させることに成功する。この関係は薩摩藩とその友藩が日本の支配権を確立すると一層深まり、イギリスは極東の日本に近代海軍を建設する大事業に関与して行く。日本海軍兵学校生徒館

イギリスは植民地で幾多の現地人による軍隊を組織し、その征服事業の手足として用いてきたが、装備を持ち込んで訓練を与えれば、それなりの形になった軍隊が出来上がる。また日本人も自力で近代軍を作り出すことに成功した。しかし海軍、それもロシアの有する海軍(イギリスの基準からすれば“沿岸警備隊”程度だった[要出典]とはいえ)と拮抗できるだけの海軍を、日本に自力で保有させるには、近代的な鉱工業と造船技術に加え、最低でも数十年の外洋での経験が必要だと思われた[要出典]。

イギリスの目的は、1880年頃に計画され始めたシベリア鉄道が完成を迎える20世紀までに、この鉄道が軍事的空白地帯である満洲と朝鮮に流し込むであろう大量の兵士と軍需物資を、日本が撃退できるだけの戦力を準備させることにあった。草創期の日本陸軍将校


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