第1期のグレート・ゲームは、一般にほぼ1813年から1907年の英露協商までの期間を指し、狭義には、グレート・ゲームとは専らこの時期の英露によるアフガニスタンを巡る抗争を指す。この時期の英露抗争は中央アジアからインド洋を目指すロシアの南下と、インドの征服事業を進めた英国との間で争奪ポイントとなったアフガニスタンにおいて争われた。
同時に、香港・上海に拠点を得て海上から清朝を侵食した英国と、シベリアに鉄道を敷設して満洲から清朝を侵食し始めたロシアとの競争が、中国・朝鮮・日本といった現地の各勢力を巻き込んで争われた極東において進行していた。
3番目の抗争地点として、チベットが浮上する可能性があった。中央アジア・新疆(東トルキスタン)・モンゴル経由でチベットを目指したロシアと、ネパールを駒としてチベットに侵攻したイギリスの間で抗争が発生する気配があったが、チベット自体の利用価値が低く英国はそれ以上の関与を放棄し、英露協商においてチベットへの清朝の宗主権を英露が尊重することで抗争は終結した[注釈 1][注釈 2]。その後、1913年にロシア勢力下で中国(中華民国)からの独立を目指したモンゴルとチベットの間でチベット・モンゴル相互承認条約(蒙蔵条約)が締結された。
第1期の抗争が頂点に達したのは日露戦争当時であり、この戦争はロシアの国内体制を動揺させてロシア第一革命を惹起し、双方は英露協商によってゲームを一時中断した。 第2期のグレート・ゲームは、1917年の2番目のロシア革命から第二次世界大戦の勃発による英露(英ソ)協調までであるが、ユーラシア大陸国際政治史から見ると、1917年のロシア革命から1970年代半ばのベトナム戦争終結までの長い期間が背景として視野に捉えるべき期間である。二度の世界大戦を挟んで凋落を経験した英国がプレーヤーを降り、代わって超大国の地位に登りつめた米国がその座を占めた。ロシア帝国はソ連へと変貌し、中央アジアではそれほど激しい抗争が発生しない時期が続いたが、極東においては英国の地位簒奪を狙う[要出典]米国が介入し、また当初は英国の用意した駒に過ぎなかった日本が主要プレーヤーにのし上がった。クアラルンプールに突入する日本軍 ゲームの駒からプレーヤーになった日本にとって、英国の衰退が決定的となる1930年代まで、ユーラシア大陸における英露対立は外交政策策定における大前提だった。しかし、その思考を固定化してしまった[要出典]ために、ソ連の出現と米国の台頭により複雑になってゆく状況に適合できないまま、東南アジアの英領植民地奪取によって、英国がゲームを続けられなくなるきっかけを作ってしまった。日本自らも、英国に替わってゲームに参加した米国によって、最終的にはプレイヤーとしては“出場停止”処分となる。 また、この時期は帝国主義という商法が終焉を迎えた時期、および米ソ超大国の抗争の時期と重なり、中国・朝鮮・東南アジア・南アジアで激戦が続いた。 第3期・第4期は、グレート・ゲームに言及する評論家から新グレート・ゲームと呼ばれていた時期があった。特に一部の大衆メディアはアフガニスタンの多国籍軍とターリバーンとの戦いを、グレート・ゲームの継承と主張している。
第2期
第3期・第4期
グレートゲーム
第1期
アフガン当時のアフガン情勢描いた風刺漫画(1878年)