グレタ・ガルボ
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業を煮やした二人は独力でロサンゼルスへと向かったが[31][32]、その後三週間が過ぎてもMGMからの連絡はほとんどなかった。実はこの時期に制作会社が、ガルボの歯列矯正と減量の手配を進めていたのだった[33]。ガルボはアメリカでの第一作目にスティッレルの作品を望んでいたが[34]、ガルボに出演の話が来たのはビセンテ・ブラスコ・イバニェスの小説を原作とした、モンタ・ベル監督の『イバニエスの激流』(1926年)のレオノーラ役だった。主役のリカルド・コルテス の相手役である妖婦レオノーラ役には、ガルボよりも10歳年上の女優アイリーン・プリングルが決まりかけていたが、ガルボがプリングルを押しのける形でレオノーラ役に抜擢されたのである[35][36]。『イバニエスの激流』はヒットし、作品そのものに対する業界誌からの評判は高くなかったが[37]、ガルボの演技については概ね好評だった[38][39]明眸罪あり』(1926年)。左からガルボ、アーマンド・カリス、アントニオ・モレノ。

『イバニエスの激流』の成功によって、MGMの大物映画プロデューサーで、製作部門総責任者アーヴィング・タルバーグ[40]、同じくビセンテ・ブラスコ・イバニェスの小説を原作とした『明眸罪あり』(1926年)の主役で『イバニエスの激流』のレオノーラと同じような妖婦のエレナ役にガルボを起用した。ハリウッドでわずか一作に出演しただけのガルボが、相手役アントニオ・モレノ(英語版)よりも上にクレジットされた[41]。ガルボの師といえるスティッレルは、主役のガルボに自分の味方をするように説得し、なんとか『明眸罪あり』の監督の座を得た[42]。しかしながら、『イバニエスの激流』で演じた妖婦の役が気に入っておらず、同じような役を再び演じたくなかったガルボと[43]、監督となったスティッレルの両名にとって、この『明眸罪あり』は満足できる作品とはならなかった。英語がほとんど話せなかったスティッレルは、ハリウッドでの製作手法に合わせることができず[44]、主演のモレノとの関係がどんどん悪化していった[45]。この有様に激怒したタルバーグがスティッレルを更迭し、代役としてフレッド・ニブロを監督に指名する結果となった。ニブロのもとで再撮影することとなった『明眸罪あり』の製作費用は嵩んでいき、1926年から1927年に公開された映画作品としてはトップクラスの興行成績をあげたにもかかわらず、この時期にガルボが出演した映画の中で唯一『明眸罪あり』だけが赤字作品となっている[46]。ただし『明眸罪あり』でのガルボの演技は高く評価され[47][48][49][50]、MGMは新たなスター女優を手にすることとなった[51][52]肉体と悪魔』(1926年)の宣材写真。ガルボとジョン・ギルバート

ガルボの人気は急速に高くなり、その後ガルボが主演した8本のサイレント映画はすべてヒットした[53]。ガルボは当時最高の人気を誇っていた男優の一人であるジョン・ギルバートと3本の映画で共演している[54]。最初に共演した作品は『肉体と悪魔』(1926年)で、サイレント映画の研究者ケヴィン・ブラウンローは「彼女(ガルボ)はそれまでのハリウッド映画で見たこともないような官能性に溢れた演技をみせた」と評している[55]。『肉体の悪魔』での演技におけるガルボとギルバートの親密さはそのまま私生活でも続き、撮影が終了するころには二人は同棲生活を始めていた[56]

『肉体の悪魔』は、ガルボの私生活のみならず女優としてのキャリアにも大きな転機となった。映画史家のマーク・ヴィエイラは「大衆は彼女(ガルボ)の美しさに魅惑され、ギルバートとのラブシーンに興奮させられた。そして彼女は大評判となっていった」としている[57]。ガルボとギルバートが共演した三作目の映画『恋多き女』(1928年)もこのシーズンの興行成績で大成功を収め、ガルボはMGMのトップスターとしての座を不動のものとした[58]。1929年に映画批評家ピエール・ド・ロハンは『ニューヨーク・テレグラフ』で「彼女(ガルボ)には男女ともに魅了する美貌と魅惑がある。ガルボに匹敵する俳優は存在しない」と評している[59]野生の蘭』(1929年)の宣材写真。

その演技と存在感によって、ガルボは短期間のうちにハリウッドでも有数の偉大な女優の一人という評価を得た。映画史家、評論家のデイヴィッド・デンビーは、ガルボがサイレント映画界に繊細な感情表現をもたらしたとし、観衆に与えた訴求力は計り知れないと評価している。ガルボは「相手を見極めるように頭を低くして唇を振るわせる」「目や唇に軽く緊張を走らせて表情を暗くして見せる。また眉をひそめたり、口角を下げることによって感情を表現している。世界中が彼女の一挙手一投足に酔いしれたのだ[60]

この時期のガルボは自身の撮影現場に注文をつけることが多くなっていた。撮影現場での製作会社の幹部を含む見学者に近づくことを禁じ、エキストラやスタッフに対しても、自身の周りに黒い衝立を巡らせて視界に入らないようにすることを求めた。このような異例な要求をする理由を尋ねられたガルボは「他の人と一緒ではできない表情を作るためです」と答えている[61]

ガルボは台詞を必要としないサイレント映画のスターだったが[62]、製作会社はガルボのスウェーデン訛りが人気の妨げとなることを危惧し、当時製作が始められていたトーキー映画へのガルボの出演を可能な限り遅らせようとした[63][64]。MGMはサイレント映画からトーキー映画への移行に消極的だったが、ガルボが出演した最後のサイレント映画『接吻』(1929年)が、MGM最後のサイレント映画にもなった[65]。ガルボは1930年代においてもハリウッドで最高の興行収入をあげる女優の一人であり、古きサイレント映画の象徴でもあり続けた。
全盛期(1930年 - 1939年)アンナ・クリスティ』(1930年)。ガルボが出演した初のトーキー映画。

「ガルボが話す! (Garbo talks!)」という宣伝文句とともに公開された『アンナ・クリスティ』(1930年)は、アメリカの劇作家ユージン・オニールの戯曲を原作とした作品で、ガルボにとって初のトーキー映画だった。この映画でガルボが初めて口にした非常に有名な台詞が「ウイスキーをちょうだい、ジンジャエールとね」「ケチらないでね」 (Gimme a whiskey, ginger ale on the side, and don't be stingy, baby)」である[66]。『アンナ・クリスティ』はこの年に公開された映画作品の中でトップの興行成績となり[67]、ガルボは同じ年に公開された『ロマンス』(1930年)とともに、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた。またドイツ語版の『アンナ・クリスティ』も1930年に公開されている[68]


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