グレタ・ガルボ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

翌1925年にはゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督のドイツ映画『喜びなき街』でアスタ・ニールセンらと共演している[27]

ガルボがアメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) の副社長、総支配人だったルイス・B・メイヤーと契約を交わした経緯については複数の説がある。当時MGMに籍を置き、高く評価されていたスウェーデン人映画監督ヴィクトル・シェストレムはスティッレルの親友だった。シェストレムはメイヤーに、スティッレルと会うためにベルリンを訪れることを強く勧めていた。この後の展開には二つの説がある。一つ目の説は、メイヤーがつねに新しい才能を求めており、すでにスティッレルに目をつけていたというものである。メイヤーはスティッレルにハリウッドへの招聘を申し入れたが、スティッレルはガルボが今後のスティッレルの作品に必要不可欠だとして、ガルボも一緒に契約することを要求した。この要求にメイヤーは二の足を踏んだが、『イエスタ・ベルリングの伝説』を観てからガルボの扱いを決めることに同意した。そしてメイヤーはガルボの魅力に衝撃を受け、スティッレルよりもガルボに興味を抱くようになっていった。メイヤーの娘が「あの眼差しだ」「私が彼女をスターにしてみせる」というメイヤーの呟きを回想している[28]。二つ目の説は[29]、メイヤーはベルリンへ向かう前にすでに『イエスタ・ベルリングの伝説』を観ており、スティッレルよりもガルボにより多くの興味を持っていたというものである。メイヤーは『イエスタ・ベルリングの伝説』を観ている最中に娘に向かって「(この映画の)監督はすばらしい。だが本当にみるべきなのはこの娘だ。……この娘、この娘だよ」と語った。『イエスタ・ベルリングの伝説』を観終わったメイヤーについて娘が「彼(スティッレル)はどうでもいい。彼女(ガルボ)を連れてくる。それだけが目的だ」と断言したとしている[30]。どちらの説が正しいにせよ、メイヤーは数カ月後にスティッレルとガルボの両名と契約を結んだ。この二人がアメリカへと出発したのは1925年6月30日のことだった。
サイレント映画での全盛期(1925年 - 1929年)アメリカへと向かう船旅の途中のガルボとスティッレル。1925年撮影。

ニューヨークに到着したスティッレルと当時20歳のガルボはどちらも英語が話せず、さらに三ヶ月にわたってMGMから何の連絡もなかった。業を煮やした二人は独力でロサンゼルスへと向かったが[31][32]、その後三週間が過ぎてもMGMからの連絡はほとんどなかった。実はこの時期に制作会社が、ガルボの歯列矯正と減量の手配を進めていたのだった[33]。ガルボはアメリカでの第一作目にスティッレルの作品を望んでいたが[34]、ガルボに出演の話が来たのはビセンテ・ブラスコ・イバニェスの小説を原作とした、モンタ・ベル監督の『イバニエスの激流』(1926年)のレオノーラ役だった。主役のリカルド・コルテス の相手役である妖婦レオノーラ役には、ガルボよりも10歳年上の女優アイリーン・プリングルが決まりかけていたが、ガルボがプリングルを押しのける形でレオノーラ役に抜擢されたのである[35][36]。『イバニエスの激流』はヒットし、作品そのものに対する業界誌からの評判は高くなかったが[37]、ガルボの演技については概ね好評だった[38][39]明眸罪あり』(1926年)。左からガルボ、アーマンド・カリス、アントニオ・モレノ。

『イバニエスの激流』の成功によって、MGMの大物映画プロデューサーで、製作部門総責任者アーヴィング・タルバーグ[40]、同じくビセンテ・ブラスコ・イバニェスの小説を原作とした『明眸罪あり』(1926年)の主役で『イバニエスの激流』のレオノーラと同じような妖婦のエレナ役にガルボを起用した。ハリウッドでわずか一作に出演しただけのガルボが、相手役アントニオ・モレノ(英語版)よりも上にクレジットされた[41]。ガルボの師といえるスティッレルは、主役のガルボに自分の味方をするように説得し、なんとか『明眸罪あり』の監督の座を得た[42]。しかしながら、『イバニエスの激流』で演じた妖婦の役が気に入っておらず、同じような役を再び演じたくなかったガルボと[43]、監督となったスティッレルの両名にとって、この『明眸罪あり』は満足できる作品とはならなかった。英語がほとんど話せなかったスティッレルは、ハリウッドでの製作手法に合わせることができず[44]、主演のモレノとの関係がどんどん悪化していった[45]。この有様に激怒したタルバーグがスティッレルを更迭し、代役としてフレッド・ニブロを監督に指名する結果となった。ニブロのもとで再撮影することとなった『明眸罪あり』の製作費用は嵩んでいき、1926年から1927年に公開された映画作品としてはトップクラスの興行成績をあげたにもかかわらず、この時期にガルボが出演した映画の中で唯一『明眸罪あり』だけが赤字作品となっている[46]。ただし『明眸罪あり』でのガルボの演技は高く評価され[47][48][49][50]、MGMは新たなスター女優を手にすることとなった[51][52]肉体と悪魔』(1926年)の宣材写真。ガルボとジョン・ギルバート

ガルボの人気は急速に高くなり、その後ガルボが主演した8本のサイレント映画はすべてヒットした[53]。ガルボは当時最高の人気を誇っていた男優の一人であるジョン・ギルバートと3本の映画で共演している[54]。最初に共演した作品は『肉体と悪魔』(1926年)で、サイレント映画の研究者ケヴィン・ブラウンローは「彼女(ガルボ)はそれまでのハリウッド映画で見たこともないような官能性に溢れた演技をみせた」と評している[55]。『肉体の悪魔』での演技におけるガルボとギルバートの親密さはそのまま私生活でも続き、撮影が終了するころには二人は同棲生活を始めていた[56]

『肉体の悪魔』は、ガルボの私生活のみならず女優としてのキャリアにも大きな転機となった。映画史家のマーク・ヴィエイラは「大衆は彼女(ガルボ)の美しさに魅惑され、ギルバートとのラブシーンに興奮させられた。そして彼女は大評判となっていった」としている[57]。ガルボとギルバートが共演した三作目の映画『恋多き女』(1928年)もこのシーズンの興行成績で大成功を収め、ガルボはMGMのトップスターとしての座を不動のものとした[58]。1929年に映画批評家ピエール・ド・ロハンは『ニューヨーク・テレグラフ』で「彼女(ガルボ)には男女ともに魅了する美貌と魅惑がある。ガルボに匹敵する俳優は存在しない」と評している[59]野生の蘭』(1929年)の宣材写真。

その演技と存在感によって、ガルボは短期間のうちにハリウッドでも有数の偉大な女優の一人という評価を得た。映画史家、評論家のデイヴィッド・デンビーは、ガルボがサイレント映画界に繊細な感情表現をもたらしたとし、観衆に与えた訴求力は計り知れないと評価している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:255 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef