グレタ・ガルボ
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アンナはヘーグビー(英語版)の出身で、カール・アルフレートと結婚したのはストックホルムに出てきて間もなくのことだった[7][8]。二人の暮らしは貧しく、下町の給湯設備のない3室のアパートに住んでいた。当時ストックホルムで一番貧しい人々が住んでいたこのスラム街で、ガルボら三兄妹は育てられた[9]

灰色一色の長い冬の夜でした。父は部屋の片隅に座り込んで、新聞の人物写真に落書きをしており、母は鼻歌を歌いながらぼろぼろの古い衣服を繕っていました。私たち子供は声を潜めて雑談するか、たんに黙って座っていることしかできませんでした。まるで身の回りに危険が迫っているかのように感じられ、私たちは不安で一杯だったのです。このような夜は神経質な少女にとって忘れられないものでした。私たちが育った家やアパートはどれも似たようなもので、ひどく劣悪な環境で暮らしていたのです[10]

幼いガルボは内気で夢見がちで[11]、学校が嫌いな[12][13]一人遊びを好む少女だった[14]。しかしながら、ガルボは豊かな想像力と天性の指導力を持った少女でもあり[15]、幼少のころから演劇に興味を持つようになっていった[16]。ごっこ遊びに友達を巻き込み、女優になるという夢を膨らませていった[16][17]。のちにガルボは友達とともにアマチュア劇団へ参加することを望み、劇場へ何度も足を運ぶようになった[18]。ガルボは13歳で初等学校を卒業したが[19]、当時のスウェーデンの労働者階級の子供と同様に上の学校へは進学していない。のちにガルボは初等教育しか受けていないことが劣等感となっていたと振り返っている[20]

1919年の冬にスペイン風邪がストックホルムで流行した。父カール・アルフレートもスペイン風邪に罹患し、職を失ってしまう[21]。ガルボは自宅で父親を看病し、病院での治療に毎週のように付き添っていたが、ガルボが14歳の1920年にカール・アルフレートは死去した[8][22]
女優として
キャリア初期(1920年 - 1924年)ガルボが最初に主役を演じた『イエスタ・ベルリングの伝説』(1924年)のワンシーン。左は主演男優のラルス・ハンソン。

学校を卒業したガルボは理髪店で髭剃り係として働いていたが、友人の薦めでストックホルムにあるPUBデパートの使い走りの職に応募し、婦人帽子売り場に配属された。やがてガルボはデパートのカタログに掲載する帽子のモデルを務めるようになり、このことがより収入の高いファッションモデルへの道を開くことになっていく[23]。1920年の終わりごろから、デパートの宣伝担当が、ガルボを女性服のモデルとして宣伝広告用の短編フィルムに出演させるようになった。ガルボが初めて出演した宣伝短編フィルムが公開されたのは1920年12月12日で、翌年も別の宣伝担当がガルボをモデルとした宣伝短編フィルムを撮影している[24]。この宣伝短編フィルムがガルボの女優としての最初のキャリアとなった。そしてガルボは映画監督エーリック・ペチュレルに認められ、1922年にペチュレルの短編コメディ『放浪者ペッテル』に出演した[25]1922年ごろに王立ドラマ劇場付属演劇学校で撮影された写真。右から三人目がガルボで、右から二人目が後にスウェーデンを代表する映画監督の一人となるアルフ・シェーベルイ

1922年から1924年まで、ガルボはストックホルムの王立ドラマ劇場付属演劇学校(英語版)で学んだ。1924年に有名なスウェーデンの映画監督マウリッツ・スティッレルに見出され、ノーベル文学賞作家セルマ・ラーゲルレーヴの小説を原作とした『イエスタ・ベルリングの伝説』のヒロインに抜擢された。主演男優は有名なスウェーデン俳優ラルス・ハンソンで、ガルボはハンソンの相手役だった。監督のスティッレルはガルボのよき相談相手となり、演技指導だけでなく女優としてのキャリア初期に必要なあらゆる事柄をガルボに教え込んだ[26]。翌1925年にはゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督のドイツ映画『喜びなき街』でアスタ・ニールセンらと共演している[27]

ガルボがアメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) の副社長、総支配人だったルイス・B・メイヤーと契約を交わした経緯については複数の説がある。当時MGMに籍を置き、高く評価されていたスウェーデン人映画監督ヴィクトル・シェストレムはスティッレルの親友だった。シェストレムはメイヤーに、スティッレルと会うためにベルリンを訪れることを強く勧めていた。この後の展開には二つの説がある。一つ目の説は、メイヤーがつねに新しい才能を求めており、すでにスティッレルに目をつけていたというものである。メイヤーはスティッレルにハリウッドへの招聘を申し入れたが、スティッレルはガルボが今後のスティッレルの作品に必要不可欠だとして、ガルボも一緒に契約することを要求した。この要求にメイヤーは二の足を踏んだが、『イエスタ・ベルリングの伝説』を観てからガルボの扱いを決めることに同意した。そしてメイヤーはガルボの魅力に衝撃を受け、スティッレルよりもガルボに興味を抱くようになっていった。メイヤーの娘が「あの眼差しだ」「私が彼女をスターにしてみせる」というメイヤーの呟きを回想している[28]。二つ目の説は[29]、メイヤーはベルリンへ向かう前にすでに『イエスタ・ベルリングの伝説』を観ており、スティッレルよりもガルボにより多くの興味を持っていたというものである。メイヤーは『イエスタ・ベルリングの伝説』を観ている最中に娘に向かって「(この映画の)監督はすばらしい。だが本当にみるべきなのはこの娘だ。……この娘、この娘だよ」と語った。『イエスタ・ベルリングの伝説』を観終わったメイヤーについて娘が「彼(スティッレル)はどうでもいい。彼女(ガルボ)を連れてくる。それだけが目的だ」と断言したとしている[30]。どちらの説が正しいにせよ、メイヤーは数カ月後にスティッレルとガルボの両名と契約を結んだ。この二人がアメリカへと出発したのは1925年6月30日のことだった。
サイレント映画での全盛期(1925年 - 1929年)アメリカへと向かう船旅の途中のガルボとスティッレル。1925年撮影。

ニューヨークに到着したスティッレルと当時20歳のガルボはどちらも英語が話せず、さらに三ヶ月にわたってMGMから何の連絡もなかった。業を煮やした二人は独力でロサンゼルスへと向かったが[31][32]、その後三週間が過ぎてもMGMからの連絡はほとんどなかった。実はこの時期に制作会社が、ガルボの歯列矯正と減量の手配を進めていたのだった[33]。ガルボはアメリカでの第一作目にスティッレルの作品を望んでいたが[34]、ガルボに出演の話が来たのはビセンテ・ブラスコ・イバニェスの小説を原作とした、モンタ・ベル監督の『イバニエスの激流』(1926年)のレオノーラ役だった。主役のリカルド・コルテス の相手役である妖婦レオノーラ役には、ガルボよりも10歳年上の女優アイリーン・プリングルが決まりかけていたが、ガルボがプリングルを押しのける形でレオノーラ役に抜擢されたのである[35][36]。『イバニエスの激流』はヒットし、作品そのものに対する業界誌からの評判は高くなかったが[37]、ガルボの演技については概ね好評だった[38][39]


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