今日 キリスト教徒にとって復活祭は特に重要な祝祭日である。新約聖書において、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されており、イエスの処刑日はユダヤ教の過越しの日の前日すなわちニサン月14日(ヨハネによる福音書)または過越祭第一日目の同月15日(共観福音書)とある。このユダヤ暦ニサン月は春分の頃に来る太陰月であり、メソポタミア文明の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。 ローマ帝国領では紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定された太陽暦であるユリウス暦を採用していたため、ローマ帝国領に住むキリスト教徒には復活祭をいつ祝うかが問題となった。初期の教会ではさまざまな方法が採用されており、ユダヤ暦に従ってニサン月15日に祝う教会や、曜日を重視してニサン月14日の直後の日曜日を復活日とする教会もあった。 他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元、コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるのである。この方法をコンプトゥスという。ユダヤ暦ニサン月は春分の頃に訪れる太陰月であるから、春分日を基準とし、アレクサンドリア教会では春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とした。 しかし、初期からユリウス暦と実際の太陽年のずれが問題になった。ユリウス暦は暦年の平均日数を365.25日するが、実際の太陽年は約365.24219日であるから、春分日が毎年ずれていくのである。実際、ローマ帝国ではユリウス暦施行間もない頃から3月25日を春分日とする慣習があったが[注釈 5]、4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日ごろとなっており、第一次ニケーア公会議では「ユリウス暦3月21日の後、最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日」を復活祭期日とした。 このような経緯で復活祭日が定められたが、結局後年にはユリウス暦と太陽年のずれが問題視された。イングランドの教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、このずれは今後拡大すると指摘している[3]。 さらにメトン周期もわずかに朔望月(太陰月)とずれているため、310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。 また、復活祭日が太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められていると、ユリウス暦3月21日の月齢次第で、復活祭日の季節が1ヶ月前後してしまうという問題が生じた。 16世紀後半になると3月21日の春分日は実際の春分日から10日間弱ものずれが生じていた。ローマ・カトリック教会は改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。 1582年10月4日まで用いられていたユリウス暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。( 365 + 1/4 )日 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)= 365日6時間 = 正確に31557600秒 しかし、平均太陽年、つまり実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数は、365日5時間48分45.179秒 = 31556925.179秒 = 約365.242189572日(2013年年央)[4]である。したがって、ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 ? 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。このずれは下記の計算のとおり、約128年で1日になる。 ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったが、千数百年も暦の運用が続くと、天文現象の発生日時と暦の上の日付の乖離は無視できないものとなり、16世紀末に10日ものずれが生じていた。31557600秒/年 ? 31556925.179秒/年 = 674.821秒/年 = 11分14.821秒/年 …… 1年ごとのずれ86400秒/日(= 1日)÷ 674.821秒/年 = 128.03年 …… 1日のずれが生じる年数 なお、上記の計算は2013年時点でのものであり、グレゴリオ改暦が議論された16世紀半ばの計算とは差異がある。 ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[5]、第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg 次に、トリエント公会議(1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見なした)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)や数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。 アロイシウス・リリウスの提出した原稿そのものは残されていない。委員会は1577年にCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子を刊行した。この冊子も長い間、失われたと考えられていた。しかし、1981年10月に歴史家のゴードン・モイアー (Gordon Moyer) が発見した。モイアーは最初、Biblioteca Nazionale Centrale di Firenze(フィレンツェ国立中央図書館)で発見し、その後、バチカン図書館、シエーナのイントロナティ市立図書館(Biblioteca Comunale degli Intronati de Siena)でも発見した。
日本標準時(UTC+9)
壬辰・翼宿・火曜
旧暦 令和6年 4月21日
(小満、芒種まで8日)
CE 2024年 5月28日
AH 1445年 11月20日
JD 2460458.6651505
12:57
[更新]
制定に至る背景
ユリウス暦によるずれ
改暦委員会と改暦案の提案
暦改正の新しい原理の大要
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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