グループ・サウンズ
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60年代当時の日本では、長髪やエレキギターといった要素は不良、若者の非行に結びつけられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。そのため、グループ・サウンズのコンサートを観に行った高校生には停学もしくは退学処分を下される学校もあった。また、コンサートに行くこと自体を禁止する中学校・高校が続出した。

1967年11月に行われたザ・タイガースの奈良あやめ池での野外コンサートで、ファンの転倒事故が発生、重軽傷者を出した[6]。そのためNHKは、『歌のグランド・ショー』で既に収録済みだったザ・タイガースの出演部分をカットし、以後、短髪だったジャッキー吉川とブルー・コメッツを例外に、長髪系のグループ・サウンズの出入りを禁止した[6][注 5]。また1968年5月にはザ・タイガースの女子高生ファンによるコンサート入場券偽造事件も起きた。

オックスがステージ上で行った失神パフォーマンスにより実際に失神する少女達が続出し、これを契機にPTAや教育関係者の反感を買うこととなった。そして事故防止のためグループ・サウンズのバンドにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体があらわれた[注 6]。「レコード・コレクターズ」の特集では、メンバーによる自作自演を志向したGSグループに対し、プロの歌謡曲作家を起用させたいレコード会社が、なかにし礼村井邦彦筒美京平鈴木邦彦すぎやまこういち等の作詞家、作曲家を雇った[7]ため、洋楽ロックのカバーなどをやりたくてもやれなかったという状況が採り上げられている。

1960年代にはピンキー・チックス、松田智加子とTokyo Pink Pearls(東京ピンク・パールズ)など、いくつかのプロの女性GS(事務所に所属)が存在した。女性GSのメンバーの中には、1970年代後半にディスコに転向した者も少数いた。後にサーフ・ロック風のゴールデンハーフもデビューしている。彼女らの「太陽の彼方」はアストロノーツのカバーだった。エミー・ジャクソンは早すぎた一人GSだったが、GS全盛期には中村晃子黛ジュン青山ミチ小山ルミ泉アキらの「一人GS」もデビューした[8]。中村晃子の「虹色の湖」、黛ジュンの「天使の誘惑」「恋のハレルヤ」などは、大ヒットになった。黛ジュンの「土曜の夜、何かが起きる」は女性版GSの代表曲である。また、男性版一人GSの荒木一郎はヒット曲のほかに、「僕は君と一緒にロックランドにいるのだ」の意欲作をリリースした。また、歌舞伎俳優の6代目市川染五郎(現・松本白鸚)も男性版一人GSとして活動していた。GSブーム終焉から20年ほどたった1990年代に注目されるようになったのが、「カルトGS」である。ザ・レンジャーズの「赤く赤くハートが」[9]、ザ・ジェノバの「サハリンの灯は消えず」、ザ・ボルテージの「イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド」[10]などは、カルトGSの代表的な作品例としてあげられている。

1968年夏頃にはGSブームはピークを迎え、100を超えるグループがレコードデビューを果たすも[注 7]1969年春にはザ・タイガース、ザ・カーナビーツ、オックスなどの人気グループから主要メンバーが相次いで脱退し、またジャッキー吉川とブルー・コメッツは、ムード歌謡路線の曲まで録音した。70年頃には完全にGSブームは終焉を迎え、1971年に入るとほとんどのグループが解散・自然消滅した[注 8]。ブームは5年ほどだった[11]

その後人気グループ・サウンズに於いてリード・ヴォーカルを務めていた人物の中からは、グループ解散後も歌手ミュージシャン俳優、またタレントとして芸能界の第一線で活躍し続けている人物も多い。また他の楽器パートを務めていた人物にも、俳優作曲家スタジオミュージシャン音楽プロデューサー芸能事務所経営者等として、芸能界の重要人物へと納まっている者が何人か存在する。元ザ・テンプターズの萩原健一は1975年1月の日刊スポーツのインタビューで、GSブームを振り返り「自分のやってることが何かこうウソくさく映ってきたわけね。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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