2001年12月、南極海で、日本の調査捕鯨船団と、グリーンピースの船「アークティック・サンライズ号」が遭遇した。この際、日本の調査捕鯨を委託されている日本鯨類研究所の理事長である大隅清治がグリーンピースを『エコ・テロリスト』だと批判するプレスリリースを発表[44]すると、即座にグリーンピースは抗議声明を出した。また、船のスクリューに鎖を巻く等、違法な直接行動に対しては、一部の日本政府関係者などに「テロリズムである」と称された。
なお鯨類捕獲調査は、ミンククジラのような鯨類資源と海洋生態系を保全し、その持続可能な利用を目的としており、国際捕鯨取締条約第8条第1項の締約国の権利として、日本政府が日本鯨類研究所に特別採捕許可を発給し、日本鯨類研究所が実施主体となって行っている法的に正当な調査活動である[45]。
高原明生は、中国が南シナ海に7か所の人工島を作ったことを、「人工島の建設というのはたいへんな自然環境の破壊」としたうえで、「サンゴ礁を掘って、人工的な島を作っているわけで、グリーンピースは何をしているんだ、日本の捕鯨船を追いかけるのが得意なシーシェパードは、と思うんですが、国際的なNGOから声は上がっていない。こういうことを知り合いから言われて、10日ばかり前にグリーンピースのホームページを見たら、英語のブログがたくさんならんでいるわけですが、サンゴ礁を壊して軍事基地をつくるとは許せない、という見出しのついている記事があったので、おっ、と思って見たら、中身は沖縄の辺野古のことでした。サウス・チャイナ・シーで検索をかけても一つも出てこない。これはやはりよろしくない、一貫性が大事だと思います」と批判している[46]。 広報(パフォーマンス)重視のボランティア活動に対する懐疑的見方など、しばしば逆効果になっているという批判がある。 例えば、2014年ペルーの世界遺産であるナスカの地上絵において、同年12月9日ペルーの首都リマで、温暖化対策の新たな枠組みを協議する国連の会議「COP20」が開催されることに合わせて、グリーンピースの複数の活動家が無断で立ち入りTime for changeなどと大きな布で文字を書いたことが問題になった。同遺産に無断進入のうえ売名行為を行ったことに加え、土足で踏み込んだために復旧が困難な地上絵付近の石の破壊があったと不快感をあらわにし、ペルー側は「深刻な影響を与えた。活動家の出国前に身柄を拘束したい」と憤慨した。グリーンピースは後日「希望と可能性の緊急メッセージを届けることよりもむしろ、不注意と下品な印象を与えた」などと謝罪の文書を出している[47]。ペルー文化庁のカスティージョ副長官は、このグリーンピースの謝罪を受け入れないと述べ、ナスカ地方の検察は、当局が特定した複数の活動家を告訴した[48]。 さらに非欧米の国の文化、国民性を無視しているとの批判もある。 アメリカ合衆国がアリューシャン列島のアムチトカ島で行おうとしている地下核実験に反対するために、1969年、カナダのバンクーバーに「波を立てるな委員会(Don't Make a Wave Committee
世界での批判
歴史
1971年 アメリカ合衆国の核実験に反対
グリーンピースは、1971年、核実験を阻止することを目指し、アムチトカ島沖合いの公海に船を居座らせて監視をするという方法で圧力をかけるために、底引き網漁船「フィリス・コーマック(Phyllis Cormack)」をチャーターして船出した。これがグリーンピースの最初の直接行動である。なお、「フィリス・コーマック」が「グリーンピース1号」、その航海への反響で新たに雇って追加派遣した元王室カナダ海軍の退役掃海艇をチャーターした「エッジウォーターフォーチュン(Edgewater Fortune)」が「グリーンピース2号」と呼ばれている。
この航海は、アムチトカ沖の目標地点まで行き着くことはできなかったものの、あまりの反対の強さ・反響の大きさに、アメリカ合衆国は、結局その後のアムチトカでの核実験を断念、同地は自然保護区(バードサンクチュアリ)と宣言された。
この航海を通じて、「目撃者となること」「目撃したことを広く伝えること」などのその後の路線がある程度確立された。また、翌1972年5月4日には、グリーンピース財団(Greenpeace Foundation)に組織を変更した[注 4]。
なお、この航海の際にメンバーのひとりがネイティヴ・アメリカンの伝承本を持参していた。その中に記載されていた「炎の目(Eyes of Fire)」という老婆が語った物語に、「虹の戦士(Rainbow Warrior)」という登場人物がいた。これは、世界が滅亡の危機に瀕したときに立ち上がる伝説の勇者の称号であるとされる。そこから「虹の戦士」はグリーンピースの活動家の自称となり、またグリーンピースを象徴するキャンペーン船の名称ともなった。この当時のグリーンピースのメンバーの多くは既存の生き方に疑問を呈しカウンターカルチャーやサブカルチャーにも理解を示していた[注 5]。 1972年には、フランスが南太平洋のムルロア環礁で行おうとしていた核実験に反対する航海を企画した。 この航海は、この時からグリーンピースに参加し、のちに代表となるデビット・マクタガート(David McTaggart)が指揮を執り、1973年にマクタガート自身の38フィート・2本マストの小さなヨット「ヴェガ S.V.Vega」を「グリーンピース3号」として核実験エリアの風下につけることで核実験を阻止しようとした。「グリーンピース3号」がそこにいる限り核実験が行えないため、フランス軍は軍艦を派遣して拿捕し排除した。しかしこのキャンペーンはイギリスなどでの大きな動きにつながり、グリーンピースの旗をエッフェル塔やノートルダム大聖堂に掲げるなどの行動が行われた。グリーンピースの行動方針のひとつである「非暴力直接行動(主義)」は、この時にはじまっている。 さらに翌1974年にもムルロア沖に船を出しての同様の抗議行動を行った。この時には、マクタガートらが拿捕しにきたフランス軍の兵士から過酷な暴行を受け重傷を負ったが、その暴行の写真の撮影と秘匿に成功し、直後にキャンペーンを行った。南太平洋における核実験反対運動は、のちにフランス国家によるグリーンピースに対するテロを引き起こすほどの衝撃を与えた。 なお、この行動の際に、フランス軍は、マクタガートらが乗船する「グリーンピース3号」を襲うために高速ゴムボート(ゾディアック Zodiac
1972年 フランスの核実験に反対
注釈捕鯨問題などに関してはフランスと共同歩調を取ることが多いが、原子力問題では、フランス政府と対立している。
捕鯨問題と環境問題への接近 (Paul Spong)が、バンクーバーのグリーンピースに接近し、クジラをめぐる問題について注意喚起を行った。このスポングの接近は、グリーンピースが捕鯨問題に進出するきっかけとなった。
またこのことは、グリーンピースが「もっぱら反核を主張する組織」から「広くさまざまな自然保護問題について行動する組織」へと脱皮することにもつながった。1971年から参加していたポール・ワトソン Paul Watson らが主力となり、1975年から捕鯨船の目の前に高速ゴムボート(ゾディアック)を繰り出して捕鯨に反対するというキャンペーンが開始された。なお、ポール・ワトソンは、1977年に「グリーンピースは軟弱に過ぎる」として袂を分かち、エコテロリストの筆頭格とされる組織・シーシェパードを設立する[注 6]。