グリーンピース_(NGO)
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ペルー文化庁のカスティージョ副長官は、このグリーンピースの謝罪を受け入れないと述べ、ナスカ地方の検察は、当局が特定した複数の活動家を告訴した[48]

さらに非欧米の国の文化、国民性を無視しているとの批判もある。
歴史
1971年 アメリカ合衆国の核実験に反対

アメリカ合衆国アリューシャン列島アムチトカ島で行おうとしている地下核実験に反対するために、1969年カナダバンクーバーに「波を立てるな委員会(Don't Make a Wave Committee)」という組織が誕生した。この組織は、のちに「名前がわかりにくい」という内部批判から、「環境」を意味する「グリーン(green)」と「平和」を意味する「ピース(peace)」をくっつけた「グリーンピース(Greenpeace)」という造語をつくり、改名した。

グリーンピースは、1971年、核実験を阻止することを目指し、アムチトカ島沖合いの公海にを居座らせて監視をするという方法で圧力をかけるために、底引き網漁船「フィリス・コーマック(Phyllis Cormack)」をチャーターして船出した。これがグリーンピースの最初の直接行動である。なお、「フィリス・コーマック」が「グリーンピース1号」、その航海への反響で新たに雇って追加派遣した元王室カナダ海軍退役掃海艇をチャーターした「エッジウォーターフォーチュン(Edgewater Fortune)」が「グリーンピース2号」と呼ばれている。

この航海は、アムチトカ沖の目標地点まで行き着くことはできなかったものの、あまりの反対の強さ・反響の大きさに、アメリカ合衆国は、結局その後のアムチトカでの核実験を断念、同地は自然保護区(バードサンクチュアリ)と宣言された。

この航海を通じて、「目撃者となること」「目撃したことを広く伝えること」などのその後の路線がある程度確立された。また、翌1972年5月4日には、グリーンピース財団(Greenpeace Foundation)に組織を変更した[注 4]

なお、この航海の際にメンバーのひとりがネイティヴ・アメリカンの伝承本を持参していた。その中に記載されていた「炎の目(Eyes of Fire)」という老婆が語った物語に、「虹の戦士(Rainbow Warrior)」という登場人物がいた。これは、世界が滅亡の危機に瀕したときに立ち上がる伝説の勇者の称号であるとされる。そこから「虹の戦士」はグリーンピースの活動家の自称となり、またグリーンピースを象徴するキャンペーン船の名称ともなった。この当時のグリーンピースのメンバーの多くは既存の生き方に疑問を呈しカウンターカルチャーサブカルチャーにも理解を示していた[注 5]
1972年 フランスの核実験に反対

1972年には、フランス南太平洋ムルロア環礁で行おうとしていた核実験に反対する航海を企画した。

この航海は、この時からグリーンピースに参加し、のちに代表となるデビット・マクタガート(David McTaggart)が指揮を執り、1973年にマクタガート自身の38フィート・2本マストの小さなヨット「ヴェガ S.V.Vega」を「グリーンピース3号」として核実験エリアの風下につけることで核実験を阻止しようとした。「グリーンピース3号」がそこにいる限り核実験が行えないため、フランス軍軍艦を派遣して拿捕し排除した。しかしこのキャンペーンはイギリスなどでの大きな動きにつながり、グリーンピースの旗をエッフェル塔ノートルダム大聖堂に掲げるなどの行動が行われた。グリーンピースの行動方針のひとつである「非暴力直接行動(主義)」は、この時にはじまっている。

さらに翌1974年にもムルロア沖に船を出しての同様の抗議行動を行った。この時には、マクタガートらが拿捕しにきたフランス軍の兵士から過酷な暴行を受け重傷を負ったが、その暴行の写真の撮影と秘匿に成功し、直後にキャンペーンを行った。南太平洋における核実験反対運動は、のちにフランス国家によるグリーンピースに対するテロを引き起こすほどの衝撃を与えた。

なお、この行動の際に、フランス軍は、マクタガートらが乗船する「グリーンピース3号」を襲うために高速ゴムボートゾディアック Zodiac)を使った。その機動性に感動したことから、グリーンピースもゾディアックを導入し、海上での抗議行動に使うようになったと言い伝えられている。ゾディアックを使っての海上での抗議行動は、その後のグリーンピースの象徴ともなり、日本国内でも1997年に高レベル核廃棄物輸送船「パシフィック・ピンテール」の迎撃行動の際に青森県六ヶ所村の東方海上で展開された。
注釈捕鯨問題などに関してはフランスと共同歩調を取ることが多いが、原子力問題では、フランス政府と対立している。
捕鯨問題と環境問題への接近

同じ頃、ニュージーランド出身で、後に国際的な学者となるポール・スポング (Paul Spong)が、バンクーバーのグリーンピースに接近し、クジラをめぐる問題について注意喚起を行った。このスポングの接近は、グリーンピースが捕鯨問題に進出するきっかけとなった。

またこのことは、グリーンピースが「もっぱら反核を主張する組織」から「広くさまざまな自然保護問題について行動する組織」へと脱皮することにもつながった。1971年から参加していたポール・ワトソン Paul Watson らが主力となり、1975年から捕鯨の目の前に高速ゴムボート(ゾディアック)を繰り出して捕鯨に反対するというキャンペーンが開始された。なお、ポール・ワトソンは、1977年に「グリーンピースは軟弱に過ぎる」として袂を分かち、エコテロリストの筆頭格とされる組織・シーシェパードを設立する[注 6]
注釈1972年ストックホルムで行われた国連人間環境会議が反捕鯨の潮流の原点であるとした上で、その背後にグリーンピースがいたとする説があるが、1972年の時点でまだグリーンピースは反捕鯨を主張していなかった。


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