グリンドゥールの反乱
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9月23日までオワインはポウィス城 (Powis Castle) (英語版) を攻撃しウェルシュプール (Welshpool) (英語版) の街を制圧しながら南に進軍した[6]:81。

同じ頃、テューダー兄弟はアングルシー島からイギリスに対してゲリラ戦を開始した。ペンミニッドのテューダー家 (Tudors of Penmynydd) (英語版) はリチャード2世と極めて親密にしていたアングルシー島の一族であった。グィリム・アプ・テューダー (Gwilym ap Tudur、1413年没) (英語版) とリース・アプ・テューダー (Rhys ap Tudur、1412年没) (英語版) は共に、フランスの侵攻に対抗して北ウェールズを守るために1396年に蜂起した兵士達の軍事的リーダーであった。彼らは1398年のリチャード2世のアイルランド遠征に出兵していた。オワインが反乱を起こしたとき、リース、グィリム、それと彼らの3番目の兄弟マレディッズ・アプ・テューダー (Maredudd ap Tudur、1406年没) (英語版) は公然と忠誠を誓った。彼らはオワインの母方のいとこだった[8]:19。ヘンリー4世

ヘンリー4世はスコットランド遠征からの帰途についており、軍隊をウェールズに向けた。9月26日にはシュルーズベリーでウェールズに侵攻する準備ができていた。電撃作戦 (lightning campaign) とでもいうべき早さで、ヘンリーは彼の軍隊に北ウェールズを包囲させた。ヘンリーは悪天候とウェールズ人ゲリラの攻撃に絶えず悩まされた[9]アングルシー島でヘンリーは、村や修道院を燃やし、島の人々を苦しめた。その中にはバンガー近くにあるスランヴァースフランシスコ会修道院 (Llanfaes Friary) [注 4] (英語版) も含まれていた[8]:21。これはテューダー家代々の埋葬場所であった[8]:17。リース・アプ・テューダーは兵士たちを率いて国王軍をロス・ヴァウル (Rhos Fawr) (英語版) で待ち伏せした。戦闘の後、国王軍は安全なビューマリス城に戻った[8]:21。10月15日、ヘンリーはシュルーズベリーに戻りそこで数人の囚人を釈放し、その2日後ウスターでは自らの成果を示すためにわずかな兵だけと行動を共にした[9]

1401年、反乱は広がり始めた。ウェールズ北部および中央部の大半はオワインの支配下となった。北部全体のイギリス人の街・城・荘園が複数回の攻撃を受けたことが記録されている。ウェールズ南部のブレコン (Brecon) (英語版) やグエント (Gwent) (英語版) でさえ強盗行為や無法状態が報告され始めた。ヘンリー王は秩序を回復するために、力強いノーサンバランド伯の息子、ヘンリー・" ホットスパー"・パーシー (1364年-1403年) を任用した[9]。また3月にはオワインと彼のいとこ、リースとグィリムを除く者たちへ全面的な恩赦が行われた[8]:22。

国内の大半の者は通常の全ての納税に合意していたが、テューダー兄弟は彼らにのしかかる過酷な脅威を追い払うには、交渉の材料が必要なことを知っていた。彼らはエドワード1世の偉大な城コンウィ城を占領することに決めた。コンウィ城にはちょうど15名の重騎兵 (men-at-arms) (英語版) と60名の弓兵が駐屯しており、彼らはよく訓練されていて、有事の際には海から簡単に増員することができた。それに対してテューダー兄弟にはわずか40名の兵士しかいなかった。4月1日の聖金曜日、ウスクのアダム (1352年?1430年) [注 5] の年代記によると、「いつもの仕事をするために来たふりをした」大工が城門に現れたとき、城内の小さな教会には5人の駐屯兵しかおらず、それが全てだった。中に入るとウェールズ人の大工は2人の警備員を攻撃し、反乱者たちが中に入れるように門を開けた[9]ホットスパーが重騎兵120名、弓兵300名とともにデンビー (Denbigh) (英語版) から到着したとき、彼は内部に強固な陣地を築くよりはるかに大きな労力が必要で、また交渉を余儀なくされることを知った[9]。パーシーの妥協は恩赦の決定に至ったが、4月20日、ヘンリー王はそれを覆した。グィリム・アプ・テューダーが直接ヘンリー王との書簡のやり取りを開始して、ようやく6月24日に合意が成立した[8]:22[9]ハズゲン山の戦い
(Battle of Mynydd Hyddgen) (英語版)
戦没者慰霊碑

オワインはまた、5月か6月にプリンリモン (Plynlimon) (英語版) 近くのハズゲン山 (Mynydd Hyddgen) (英語版) で平野部における最初の大きな勝利を挙げた。オワインと彼の数百の軍隊は、ペンブルックシャー (イングランドとウェールズの境界部分) からの約1,500名のイギリス人およびフラマン人の入植者たちが休息をとっていたハズゲン渓谷の底の部分で野営をしていた。オワインは彼の軍隊を立て直し攻撃をして200名を殺した[11]。ヘンリー王にとって、別の討伐計画を立てる上で状況は極めて深刻だった。この時は、10月にヘンリー王はウェールズ中央部を攻撃していた。彼の軍隊はシュルーズベリー、ヘレフォード城 (Hereford Castle) (英語版) からポーイスを通って、ストレイタ・フロリダ修道院 (Strata Florida Abbey) (英語版) を目指して進軍した。シトー修道会はオワインに同情的であることが知られており、ヘンリー王は彼らの自らに対する忠誠心を思い起こさせ、反乱がこれ以上南に広がるのを防ぐことを企てた。オワインの軍隊による数多くの妨害を受けた後、ヘンリー王はストレイタ・フロリダに到着した。(修道院に着いたものの) ヘンリーは慈悲深い気分ではなかった。彼の軍隊は修道院の一部を破壊し、彼に反抗して武装する疑いのある僧侶を殺した。しかしヘンリー王は大多数のオワインの軍隊を服従させることはできなかった。オワインの軍隊はヘンリー王に抵抗し、王の誘いには乗らずにヒットエンドラン戦法を取って正面から戦うことをしなかった。ヘンリー王の軍隊は撤退を余儀なくされた。1401年10月28日、彼らの努力はほとんど報われることなく、王の軍隊はウースターに到着した[6]:109。その年は、1401年11月2日のオワインによるカーナーヴォン城への籠城を巡っての消耗戦、タトヒルの戦い (Battle of Tuthill) (英語版) とともに終わりを迎えた。

イギリス人たちは仮に反乱が広がった場合、不満を抱いていた、退位したもののその生存の噂が広範囲に広まっていたリチャード王の支持者たちを、必然的にひきつけるであろうと考えていた。イギリス人たちはチェシャーでの反乱の可能性を憂慮し、北部ウェールズからのニュースを益々気にかけていた。ホットスパーはヘンリー王から十分な支援を受けていないことと、王の抑圧的な方針が反乱を誘発しているだけであることに不満を持っていた。彼は交渉と妥協により、オワインに反乱を止めさせるよう説得できると主張した。実際早ければ1401年にホットスパーは、オワインや他の反乱軍のリーダーたちと和解交渉に参加させるための秘密交渉を行ったのかもしれない。しかし、中心的なランカスターの反乱支持者たちには、その可能性はなかった。彼らはウェールズにおけるイギリス人の優位性を確立するために定められた反ウェールズ法 (1402年反ウェールズ刑法) (Penal Laws against Wales 1402) (英語版) に反対していた[9]。この法律は、ウェールズ人がイングランドで土地を買うことやウェールズで上級公職に就くこと、武装することや、城あるいは防御された建物を持つことを禁止していた。またウェールズ人の子供たちの教育や商売人への弟子入りは認められず、ウェールズ人から告訴されたイギリス人は誰も有罪判決を受けず、イギリス人女性と結婚したウェールズ人は厳しく罰せられ、ウェールズ人女性と結婚したイギリス人は選挙権がはく奪され、また全ての公的な集会が禁止される、というものであった[6]:360。これらの法律は旗色を鮮明にしていない人々に対して、イギリス人は全てのウェールズ人に対して同様の疑念を抱いているというメッセージを送った。イギリス人の社会の中でそのキャリアを積み上げようとしてきた多くのウェールズ人は、今やオワインとヘンリーとの妥協点は消えたかのように、反乱に巻き込まれたと感じた。

同じ1402年の1月の終わりか2月の初め、オワインは彼の宿敵第3代グレイ・ドゥ・リシンバロン、レジナルド・グレイ (Reginald Grey, 3rd Baron Grey de Ruthyn、1362年-1440年) (英語版) をリシン (Ruthin) (英語版) で待ち伏せして捕獲した[6]:115。


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