グランダルメ
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1812年の夏にロシア遠征を始めた時がその最大であり、兵力は700,000名を数えた。

ロシアでの壊滅後もナポレオンは兵力を再編し、1813年のライプツィヒでの諸国民の戦い、1814年のすさまじいフランス防衛戦および1815年のワーテルローの戦いで新しい軍隊を率いたが、ナポレオン軍は1812年6月の大陸軍の高みまで戻ることはなかった。
組織

大陸軍の成功の最も重要な要因のひとつは、その高度に優れた組織の柔軟性であった。全体をいくつかの軍団(通常5から7個)に分けられ、1個軍団は10,000名から50,000名、平均して20,000名から30,000名で構成された。これらの軍団(Corps d'Armee)はそれぞれに、下記のような各兵種と支援部隊を持つ連合型の小軍隊であった。単独でも作戦行動ができる一方で、軍団同士は1日の行程の内にあって互いに密接な協働行動を執れた。軍団はその戦力と課された任務の軽重によって、元帥、軍団将軍(General en chef、上将)または師団将軍(General de division、中将)によって指揮された。

ナポレオンは彼の軍団の指揮官を大変信頼しており、彼の戦略目標の範囲内で行動し、協働してそれを達成するのであれば、通常は広い範囲で指揮官達に行動の自由を与えた。仮に指揮官達が失敗して彼を満足させることができなかった場合は、躊躇することなく叱責あるいは解任し、多くの場合彼自身がその軍団の指揮を執った。1800年ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍がライン方面軍を4個軍団に分けたのが軍団の始まりであった。これは一時的な分け方であり、1804年までにナポレオンが恒久的な組織とした。ナポレオンは個々の軍団に騎兵を設け、歩兵によって動きが鈍くならないよう素早い離合集散を図った。

軍団 - 師団 - 旅団 - 連隊 - 大隊 - 中隊

軍団は、1812年に騎兵予備集団が分割されて騎兵軍団ができたことから、従来の軍団は歩兵軍団と呼ばれるようになった。軍団(歩兵軍団)は通常「3個の歩兵師団+1個の軽騎兵師団+軍団砲兵」とされた。騎兵軍団は通常「1個の重騎兵師団+1個の軽騎兵師団」とされた。軍団砲兵は、1個徒歩砲兵中隊+1個騎馬砲兵中隊が標準だった。

歩兵師団(4000?6000名)は通常「3?6個の歩兵連隊+師団砲兵」とされた。騎兵師団は通常「2?4個の騎兵連隊+師団砲兵」とされた。歩兵師団砲兵は1個徒歩砲兵中隊、騎兵師団砲兵は1個騎馬砲兵中隊が標準だった。歩兵連隊は2?6個大隊とされた。騎兵連隊は1?4個大隊とされた。戦場での基本行動単位は大隊である。歩兵大隊は平均500名くらいで、騎兵大隊は平均150騎くらいだった。連隊は通常の大隊管理組織であり、旅団は戦場での大隊指揮組織であった。

旅団は、実質的には師団長配下の旅団長とその副官数名であり、旅団長は、予め割り当てられた連隊の各大隊の戦場指揮をまかされる役職だった。師団は0?3個の旅団を持った。例えば歩兵師団下連隊の全大隊は、戦場では左翼旅団と右翼旅団に編制されるなどした。旅団長が各大隊を動かす場合の連隊長は、自連隊の第1大隊を率いた。旅団を持たない師団では、連隊長が配下大隊を戦場指揮した。騎兵連隊の各大隊は、従軍時の消耗による人馬の数の変動が激しかったので、会戦時は騎兵旅団というカバー単位による再編成を必要とした。騎兵大隊は2個中隊だった。歩兵大隊は1807年まで9個中隊で、1808年から6個中隊になった。中隊は100名くらいと考えてよい。
皇帝近衛隊

フランスの皇帝近衛隊 (Garde Imperiale) は当時の精鋭部隊であり、執政親衛隊 (Garde des Consuls, Garde Consulaire) から発展した。これはそれ自体が軍団(Corps d'Armee)であり、歩兵、騎兵および砲兵部隊を持っていた。ナポレオンは近衛隊が全軍の模範を示すことを望み、彼と共に多くの戦闘に参加したので、絶対の忠誠を強いた。歩兵が戦闘に参加することは希であったが、近衛騎兵隊はしばしば戦闘に参加し敵に大きな打撃を与えた。また砲兵は接近戦の前の砲撃で敵を脅かすことに用いられた。

近衛隊の規模の変遷
年兵士数
18003,000
18048,000
180512,000
181056,000
1812112,000
181385,000(ほとんどが新規近衛隊)
181528,000

古参・中堅・新規近衛隊
1804年のナポレオン皇帝即位から発足した近衛隊は、1809年の新規近衛隊の創設に伴ない、古参近衛隊と呼ばれるようになった
[2]。1810年には中堅近衛隊が新設された[3]。それぞれの経験と能力の評価に従って、近衛歩兵は連隊別に、近衛騎兵は大隊別に分かれて、古参・中堅・新規近衛隊のいずれかに所属した。

古参近衛隊(Vieille Garde)- 近衛擲弾兵、近衛猟歩兵、近衛精鋭憲兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛猟騎兵の古参大隊、皇后竜騎兵、近衛軽槍騎兵の古参大隊、近衛徒歩砲兵の古参、近衛騎馬砲兵

中堅近衛隊(Moyenne Garde)- 近衛小銃猟歩兵、近衛小銃擲弾兵

新規近衛隊(Jeune Garde(フランス語版))- 近衛狙撃歩兵、近衛選抜歩兵、近衛海兵、近衛猟騎兵の新参大隊、近衛軽槍騎兵の新参大隊、近衛徒歩砲兵の新参

近衛歩兵
近衛擲弾兵(Grenadiers-a-Pied de la Garde Imperiale)
[4][5]
皇帝近衛擲弾歩兵連隊は大陸軍の中でも最も上級の連隊であった。1807年のポーランド方面作戦では、ナポレオン自身によって「不平屋」(les grognards)という渾名を付けられた。構成員は近衛兵の中でも最も経験を積んだ勇敢な歩兵であり、古参兵の中には20回以上戦闘に参加した者もいた。この連隊に入ろうとする者は少なくとも10年間は連隊旗の下にあり、読み書きができ、勇猛さで表彰され、しかも身長が178 cm以上である必要があった。皇帝近衛擲弾歩兵連隊は中堅近衛兵や新規近衛兵ほど戦闘に参加する機会がなかったが、一度参加したときは賞賛に値する戦果を上げた。1815年に皇帝近衛擲弾歩兵は4個連隊に拡張された。新しい連隊すなわち第2、第3、第4連隊は即座に皇帝近衛擲弾歩兵に格付けされた。この時点では第1連隊ほど力量が望めなかったのは事実である。実際にはこの軍隊は中堅近衛隊と呼ばれた。ワーテルローでイギリス近衛兵に敗れたのはこれらの連隊であった。第1連隊はプランスノアでプロイセン軍と戦った。皇帝近衛擲弾歩兵連隊の兵士は赤の折り返しのある濃青のハビットロング(尾の長い上着)を着て、赤の肩章と白の襟章を着けていた。最も目に付く特徴は高い熊毛帽であり、彫刻された金の板と赤の羽毛、白の紐で飾られていた。
近衛猟歩兵(Chasseurs-a-Pied de la Garde Imperiale)
皇帝近衛猟歩兵連隊は大陸軍の中で2番目に上級の連隊であった。猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊の姉妹隊であった。この隊に入るには同じような基準があったが、身長のみ172 cm以上であった。猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊と同様に幾つかの激しい戦闘に参加し戦果を上げた。1815年のナポレオンの帰還では、猟兵連隊も4個連隊に拡張されたが、第2、第3、第4連隊は経験年数4年の兵士から構成された。これらの連隊は歩兵連隊の中堅近衛兵連隊と共に、ワーテルロー会戦の最終段階で近衛隊突撃に加わった。皇帝近衛擲弾歩兵第1連隊と同様に猟歩兵第1連隊もプランスノアの戦いに参加した。猟歩兵連隊の兵士も赤の折り返しのある濃青ハビットロングを着用し、緑が縁の赤の肩章と白の襟章を着けていた。戦闘時には濃青のズボンを履いた。これも近衛歩兵と同様に、猟歩兵連隊の顕著な特徴は高い熊毛帽であり、緑に重ねた赤の羽毛と白の紐で飾られていた。[6]
近衛小銃猟歩兵(Fusiliers-Chasseurs de la Garde Imperiale)
フュジリエ(火打石銃兵)猟兵は1806年に中堅近衛歩兵の連隊として創設された。中堅近衛隊のすべての兵士は2ないし3回方面作戦に参加した古参兵であり、戦列連隊の下士官に任命された。全近衛隊の中でも問題なく優秀な歩兵であるフュジリエ猟兵連隊猟兵は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ擲弾兵連隊(下記)と共に近衛フュジリエ旅団の一部として戦闘に参加した。フュジリエ猟兵連隊は広範な作戦行動に参加し、繰り返しその存在価値を示し続けたが、ナポレオンの退位に続く1814年に解散し、1815年のワーテルロー方面作戦に向けて再編制されることはなかった。制服は赤の折り返しのある濃青のハビット(上着)を着用し、赤い縁で緑の肩章と白の襟章を着けていた。上着の下は白のチョッキと青か茶色のズボンだった。帽子は円筒帽で、白の紐が着き、緑に重ねた赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃銃剣および短いサーベルだった。
近衛小銃擲弾兵(Fusiliers-Grenadiers de la Garde Imperiale)[7]
フュジリエ擲弾兵連隊は1807年に結成された中堅近衛歩兵連隊である。フュジリエ猟歩兵連隊と同様な基準で組織化されたが、規模がやや大きかった。フュジリエ擲弾兵連隊は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ猟兵連隊と共に近衛フュジリエ兵旅団の一部として戦闘に参加した。フュジリエ猟兵連隊とほぼ同様な活動履歴を残し、1814年に解散し、1815年にはやはり再編制されなかった。服装は、赤の折り返し着きハビット、赤の肩章と白の襟章、白のチョッキ、白のズボンだった。帽子は円筒帽で白の紐と長い赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。
近衛海兵(Marins de la Garde de la Garde Imperiale)
近衛海兵隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、イギリス海峡を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、近衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートやバージあるいはその他の船の操船にあたった。制服は金のレース飾りのついたネイビーブルーのユサール風ドルマンジャケットと、やはり金のレース飾りのついたネイビーブルーのハンガリー風ズボンだった。帽子は Gold Guard と刺しゅうされた円筒帽だった。[8]武器は歩兵と同様で、シャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような拳銃も持っていた。
近衛狙撃歩兵(Tirailleurs de la Garde Imperiale)
1808年にナポレオンの注文で作られた連隊であり、最も知性があり強靱な新兵を新規近衛隊の第1連隊に編入したものであった。新兵の中でも背の高い者が編入された。下士官はすべて中堅近衛隊から編成替えされた。この連隊を徐々に鍛えられた古参兵に変えていくことで、士気と戦闘能力を上げていった。制服は濃青の折り返しのある濃青のハビット、赤の肩章、白の管状襟章だった。帽子は赤の紐と赤の長い羽毛が着いた円筒帽だった。
近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde Imperiale)
新規近衛隊の中で背の低い新兵がこの連隊に編入された。構成は狙撃擲弾兵連隊と同様だが、士官は古参近衛隊から、下士官は中堅近衛兵から編制替えされた。制服は赤の折り返しのある濃青のハビット、白の管がある濃青の襟章だった。さらに赤の縁のある緑の肩章が着いていた。帽子は円筒帽で緑あるいは緑に重ねた赤の大きな羽毛で飾られていた。
近衛騎兵

近衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(Chasseurs-a-Cheval)と騎馬擲弾兵連隊(Grenadiers-a-Cheval)の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(Gendarmes)大隊およびマムルーク(Mamelukes)大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Imperiale、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊(Regiment de Chevau-Legers de la Garde Imperiale Polonais、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2皇帝近衛軽騎馬槍騎兵連隊(2e Regiment de Chevau-Legers Lanciers de la Garde Imperiale)あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。1812年には第三の軽槍騎兵連隊が創設され、また、偵察兵連隊は1813年の末に創設された。

近衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。


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