グラビアアイドル
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中原はのち日本競輪学校(当時)の入学試験に合格、同校で訓練を積んだのち2018年7月より本名の日野未来としてガールズケイリンでプロデビューを果たし、トップレーサーにまで登り詰めた[21][22][注釈 1]。ほかにも、プロレスリング転向組もおり、2010年代以降、愛川ゆず季まなせゆうな万喜なつみ白川未奈らがリングデビューしている。
その他(声優など)

また、グラビア界には、前述の傾向以外からの進出も増えているが、2000年代後半からはその流れが加速している。

声優界では、アイドル声優として知られる平野綾たかはし智秋戸松遥などが、いずれもグラビアアイドルと同様の水着姿を披露していくほか、2010年代になると、内田真礼[24]佐倉綾音[25]水瀬いのり[26]小倉唯[26]斉藤朱夏[27]逢田梨香子[28]豊田萌絵[29]などのように、いわゆる一般の漫画雑誌などの巻頭グラビアに登場したり、水着姿を含む写真集を発表する声優も現れるようになった。いくつかの声優雑誌では(特に巻頭特集などで)、インタビューページよりもグラビアページの方にページが割かれている傾向が強いことが少なからず存在している。一例として『声優アニメディア』『声優パラダイスR』『B.L.T VOICE GIRLS』などが該当する。

この他にも、元衆議院議員上西小百合が議員在職中に写真集を発売したり、藤川優里(青森県八戸市市議会議員)が市議会選挙初当選後に水着姿が収録された写真集やDVDを発売したことでも話題となったが、上西・藤川は大学時代にキャンペンガールやタレントとして活動経験がある。

2020年代からはりりか、あみちなどSNSインフルエンサーのグラビア進出が本格化。週刊プレイボーイ編集部・金髪りさはグラビアをやっているインフルエンサーに「グラエンサ―」と名付けた[30]
AIグラビアアイドル

バーチャルアイドル#AIグラビアアイドル参照。
足跡
1970年 - 1980年代

日本においての「グラビアアイドル(以下、特別な場合を除きグラドルに略記)」の歴史は、キャンペーンガールとして1976年より活躍したアグネス・ラム(ハワイ出身)に始まる。

この時代はグラビア誌面の雑誌は、『平凡パンチ』(1964年創刊、マガジンハウス刊)、『週刊プレイボーイ』(1966年創刊、集英社刊)などの週刊誌系のみで、飾っていたのは当時の女性アイドルと専任のヌードモデルたちであった。

女性アイドルのメインは、ほぼすべてがテレビ出演やコンサートでの歌手活動で「アイドル歌手」とも呼ばれ、彼女らのグラビアにおける水着披露は、歌手としての人気を獲得するプロモーションの一環に過ぎず、「あくまで本業は歌手」の前提であった。

1974年小学館からA4大判のグラビア雑誌GORO』が創刊される。それまでの雑誌グラビアが、どちらかと言えば読み物記事の添え物といったような扱いだったのに対し、『GORO』は表紙と巻頭グラビアを写真家篠山紀信が担当した。無名女性モデルのヌードからアイドル歌手、新進の若手女優を等価に扱ったグラビアコーナー「激写」を生み出し、これが世に受けてグラビア写真により大きな比重を置いた雑誌として、成人男性読者を中心に大きな反響を呼ぶ。

1980年代前半当時の芸能界は、山口百恵引退後の第2期女性アイドル歌手ブームが起きていた時期であり、掲載していた場合について、まだ世間的にも女性アイドルが「グラビアに載っている」という捉え方でしかなかったが、アイドル歌手、クラリオンガールなどのキャンペーンガールや新人女優が、グラビアで水着を披露する割合が多かった。

1982年に『スコラ』(講談社、のちに分社)が創刊した。

1984年堀江しのぶがデビューする。堀江は後に巨乳アイドルブームの立役者となる野田義治(現:サンズエンタテインメント会長)の秘蔵っ子であり、野田に「堀江を売り出すためにイエローキャブを創った」と言わしめるほどの存在だった。グラビアで人気を獲得した堀江は徐々にバラエティー番組やドラマ、映画へと活動の幅を拡げ、現代においても見られる「グラドル→マルチタレント」の流れの基礎を築いたが、4年後の1988年9月に、胃癌により23歳の若さで急逝。彼女の死が大きく報じられたことによりグラドルの存在を世に記す第一歩となり、その後野田が手掛けたかとうれいこ細川ふみえも、豊満で肉感的なスタイルを活かしてまずグラビアで人気を博した後、テレビ番組など活動の幅を拡げており、野田率いるイエローキャブはグラビア界で地位を確立した。
1990年代

1990年代に入ると、大手のオスカープロモーションC.C.ガールズシェイプUPガールズといった、セクシー路線に徹したアイドルグループを売り出し、こうしたセクシータレント及びグループが多数登場した。しかしながら、この時点でも「グラビアアイドル」の言葉は浸透しておらず、売り込む対象は一部の男性層に限られており、彼女たちは(後年には別な意味合いとなる)「セクシータレント」などと呼称をされていた。

1994年、この年にエポックメーキングな登場をしたのが雛形あきこである。2年前に俳優として芸能界デビューしていたが伸び悩んでおり、イエローキャブに移籍して水着グラビアを始めるとその素質が一気に開花する。俗に「雛ポーズ」と呼ばれる両腕を絞って胸の谷間を強調するポーズで広く知られ、これ以降の水着グラビアに一定の方向性を示した。

イエローキャブ系の巨乳グラドルが隆盛の中、細身で美乳の新しいタイプのタレントとして、藤崎奈々子山川恵里佳らを擁するアバンギャルドが台頭し、彼女らもグラビアでの成功を機にマルチタレントへとステップアップしている。

また、この頃から大手プロダクションもグラビアアイドルを手掛けるようになり、ホリプロからは優香がデビュー。1年後の1998年ゴールデン・アロー賞のグラフ賞を受賞したのを皮切りに、1999年度には最優秀新人賞・放送新人賞を、2000年度にも放送賞を受賞し、2002年度には記念表彰のゴールデングラフ賞を受ける快挙を成し遂げ、グラビアタレントの地位向上に大きく貢献した。

イエローキャブ系以外の巨乳グラドルとしては、青木裕子黒田美礼坂木優子松田千奈などが活躍。取り分け、青木裕子と黒田美礼はグラビア雑誌の表紙を競い合うように飾ったが、雑誌以外のメディアに出演することは少なかった。一方、坂木優子や松田千奈はバラエティやVシネマなどでも活躍した。

1990年代末期になると、バストのサイズが100cmを超えるグラドルも登場。大沢舞子(100cm、1999年デビュー当時はみなみ名義)を皮切りに、2000年代以降の根本はるみ(103cm)、石川夕紀(105cm)へとつながっていく。また、巨乳グラドルの増加に伴い、雑誌の紹介記事などでは、サイズに加えてカップが記載され、キャッチコピーで使われることも多くなっていった。
2000年代以降

2000年以降、アイドル系の新しいグッズアイテムとしてトレーディングカードが登場し、グラドルの有力商品グッズの1つとして定着していった。

グラビアタレントのバラエティ番組への本格的進出が顕著になり、特にMEGUMI若槻千夏をはじめとする「芸人並にしゃべれて面白いリアクションができるグラビアタレント」の出現が、グラビアタレントの裾野を広げる大きなきっかけとなった。

この頃から大抵の番組では俗に「グラビアタレント枠」と言われるものが設けられ、お笑い芸人たちに混じって番組を盛り上げる役として、お茶の間の人気を獲得していく。

2000年代中盤以後、ライブアイドルファッション雑誌専属モデルなど、グラビアのキャリアなくキャリアを成長させるタレントの増加などがみられるほか、グラビアタレントより露出の多いジャンルへの人材流出などがみられた。

2000年代中盤以後、『ヤングガンガン』(スクウェア・エニックス)の新規参入や『漫画アクション』(双葉社)、『ヤングキング』(少年画報社)の復活といったものはあるものの、グラビア業界の市場規模の拡大については、陰りが見え始めた。


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