製作の直前まで脚本についての議論は続けられており、三人目の脚本家として参加したウィリアム・ニコルソンは主人公マキシマスをより感傷的な人物として描写するべく、作品中に頻出する死生観についてのテーマを織り込んだ。その中でヌミディア人の奴隷ジュバが重要な役割を演じるよう、人物関係が調整された[12]。途中でフランゾーニも製作から脚本に復帰して、ウィリアムとローガンの変更案を監修する立場についた。ウィリアムはフランゾーニの初期案を尊重しながら変更作業を行い、フランゾーニも脚本監修としては変更案を自由に行わせた。しかし製作としてはあくまで自分の初期案に近い物を採用するように主張していた[13]。後にフランゾーニは『グラディエーター』については製作に関する貢献が認められ、アカデミー作品賞を共同受賞した[9]。
また脚本は主演を務めたラッセル・クロウからの提案による修正も行われた。彼は常に脚本の内容について意見を提示し、納得する回答が製作陣から得られないと不満げにセットを練り歩いた。ドリームワークスの製作陣は口を揃えて「(ラッセルは)全ての脚本を書き直させようとした。特にトレーラーでも使用された『今生か、さもなくば来世で復讐を果たす』という台詞を断固として受け入れなかった」と証言している[14]。ラッセルが追加された死生観についてのテーマを嫌っており、「ウィリアムの脚本はゴミだ。だが私は世界一の俳優だからどんなゴミみたいな台詞でも良く演じてみせる」とまで罵倒したという。ウィリアムは「多分、私の脚本がゴミみたいだから、そのままの台詞を喋ったんだろうね」と皮肉っている[15]。 映画撮影に備えて、スコットはストーリーボードの製作に数ヶ月間を費やした[16]。また6週間にわたって製作スタッフを連れて、イタリア・フランス・イングランド・北アフリカなど実際にローマ文明が形成された土地を旅行して、撮影用の場所などを探して回った[17]。 作中で登場する調度品や衣服、セットや建築物の多くは購入や借用が困難であった為、殆どが映画の為に一から製作された[18]。 1999年の5月、最初の撮影が開始された。まず取り掛かられたのは映画の冒頭にあたる、冬のゲルマニアでの戦闘場面だった。しかし実際に撮影が行われたのは先述の通り春頃で、また撮影場所にはイングランドのボーンウッズが用いられた[19]。現地の森林委員会が森を伐採する予定にあったことを知ると、スコットはこれを活用して森の木々を燃やすなどの撮影について許可を得た[20]。スコットと撮影監督のジョン・マシソンは可変フレームレートやマルチカメラといった技法を用いて迫力ある戦闘シーンを撮影した。これは1998年の『プライベート・ライアン』でも使用された技法である[21]。次にモロッコ王国のワルザザートに撮影場所を移して、ズッシャバルの奴隷市場と訓練シーンを3週間にわたって撮影した[22]。地方闘技場での場面は実際に古い建設技術と材料を使って3万個の泥レンガを作って組まれたセットが撮影スタッフによって用意された[23]。そして最後にローマ市内のシーンの為、マルタ島のリカソリ砦で19週間の長期撮影が行われた[24][25]。 マルタ島が選定された理由はローマの本土であったイタリア(イタリア本土)に近く地理的条件が似ており、近世に建てられたローマ風の建築物が存在していたためである。とはいえ長い歴史でマルタ島の遺跡も多くが変容しており、この場面はセットとCG技術を駆使したフォローが想定されていた。事実、街中で見られる建物の多くやコロッセウムの基礎部分を除いた箇所などがCGI(CG)によって付け加えられている[26]。同時に実物大のセットも組まれたが、特にコロッセウムの基礎部分は100万ドルもの費用を投じて建設された[27]。これ以外に映像を彩る小物類(武器、甲冑、胸像、家具、天幕、柱、布地、衣装)などは全てこの映画の為だけに発注されたオーダーメイド品で、他の歴史映画からの使い回しなどは一切行われなかった[24]。 撮影後の作業は編集とCGI加工に絞られ、特にCGI部分についてはロサンゼルスにCGI用の設備を持つミル社 また主要俳優の一人であったプロキシモ役のオリヴァー・リードが撮影終了間際に病死したことは予想外の作業を必要とした。出演予定だった終盤の場面は編集やCGで誤魔化すという苦肉の策が行われた[29]。
プリプロダクション
撮影
ポストプロダクション