1999年の5月、最初の撮影が開始された。まず取り掛かられたのは映画の冒頭にあたる、冬のゲルマニアでの戦闘場面だった。しかし実際に撮影が行われたのは先述の通り春頃で、また撮影場所にはイングランドのボーンウッズが用いられた[19]。現地の森林委員会が森を伐採する予定にあったことを知ると、スコットはこれを活用して森の木々を燃やすなどの撮影について許可を得た[20]。スコットと撮影監督のジョン・マシソンは可変フレームレートやマルチカメラといった技法を用いて迫力ある戦闘シーンを撮影した。これは1998年の『プライベート・ライアン』でも使用された技法である[21]。次にモロッコ王国のワルザザートに撮影場所を移して、ズッシャバルの奴隷市場と訓練シーンを3週間にわたって撮影した[22]。地方闘技場での場面は実際に古い建設技術と材料を使って3万個の泥レンガを作って組まれたセットが撮影スタッフによって用意された[23]。そして最後にローマ市内のシーンの為、マルタ島のリカソリ砦で19週間の長期撮影が行われた[24][25]。
マルタ島が選定された理由はローマの本土であったイタリア(イタリア本土)に近く地理的条件が似ており、近世に建てられたローマ風の建築物が存在していたためである。とはいえ長い歴史でマルタ島の遺跡も多くが変容しており、この場面はセットとCG技術を駆使したフォローが想定されていた。事実、街中で見られる建物の多くやコロッセウムの基礎部分を除いた箇所などがCGI(CG)によって付け加えられている[26]。同時に実物大のセットも組まれたが、特にコロッセウムの基礎部分は100万ドルもの費用を投じて建設された[27]。これ以外に映像を彩る小物類(武器、甲冑、胸像、家具、天幕、柱、布地、衣装)などは全てこの映画の為だけに発注されたオーダーメイド品で、他の歴史映画からの使い回しなどは一切行われなかった[24]。 撮影後の作業は編集とCGI加工に絞られ、特にCGI部分についてはロサンゼルスにCGI用の設備を持つミル社
ポストプロダクション
また主要俳優の一人であったプロキシモ役のオリヴァー・リードが撮影終了間際に病死したことは予想外の作業を必要とした。出演予定だった終盤の場面は編集やCGで誤魔化すという苦肉の策が行われた[29]。なお、プロキシモは兵士達に囲まれ刺殺されるが、そのシーンのプロキシモは容姿を似せた代役が担当し、顔が映らないようにされた。グラディエーター製作の上でこうしたCG製作は欠かせない重要な作業であった。しかしCGI作業を統括した視覚効果監督のジョン・ネルソンは「我々がやったことは映画全体の一部に過ぎない。オリヴァーの件にしても、人々に感動を与えたのは彼の演技だった。我々はそれを上映する手助けをしただけだ」とコメントしている。本作はオリヴァー・リードの遺作となった[30]。 音楽はハンス・ジマー、リサ・ジェラルド、クラウス・バデルトが担当、ゴールデングローブ賞の音楽賞を受賞したほか、アカデミー作曲賞にノミネートされるなど高い評価を受けたが、戦闘場面の楽曲はホルストの組曲「惑星」の「火星」と酷似しており、2006年、ホルスト財団から著作権侵害で訴訟を起こされた。ジマー側は盗作ではないと主張し全面的に争っている[31][注釈 2][32][33]。またコンモドゥスの凱旋式シーンに使用された曲はワーグナーの「ニーベルングの指環」と酷似しており[34]、冒頭におけるゲルマニアの曲はリドリー・スコットが愛好している映画「ズールー」との関連を主張する意見もある。 また、同作品の主題歌「ついに自由に(Now We Are Free)」を歌ったリサ・ジェラルドも一気に知名度を上げた。 楽曲は高い評価を受けた映画音楽として多方面において借用され、2003年のNFL決勝戦でハーフタイム中に流されている[35]。
音楽