グダンスク
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1466年にポーランド王国とドイツ騎士団との間で締結された第二次トルンの和約と、王領プロイセンの確立によって、ポーランド王国とドイツ騎士団との戦争は完全に終結した。これによってグダニスクはドイツ騎士団の利権を完全に排除して大幅な自治権を実質的にも確立することになり、これは1577年に再確認された。

こうしてポーランド王国の直接の庇護を得た16世紀17世紀は、グダニスクの貿易と文化にとって「黄金時代」であった。市民はドイツ人が比較的多かったが、ポーランド人ユダヤ人オランダ人も多数住んでいた。さらにスコットランド人難民もやってきて市民権を得た。有名な天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが業績を残したのもこの時代であるが、彼の父親はチェコ人移民でグダニスクでビール醸造業を営んでいた。これら多民族の住民が混住することにより、街は繁栄を極めた。宗教改革の時代には多くの市民がルーテル派(主にドイツ系やポーランド系の中産階級)やカルヴァン派(主にオランダ系やスコットランド系の中産階級やポーランド人貴族)を受け入れた。しかしカトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。これは時代によって程度の違いこそあれ、ポーランド王国には一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土があったからである。
ポーランド王国の消滅以降プロイセンからグダンスクを奪取するナポレオン軍(1807年)

18世紀、度重なる戦争によってグダニスクの経済は徐々に衰退していった。1734年ダンツィヒ攻囲戦ではロシアに占領された。1793年第2次ポーランド分割により、グダニスクはプロイセン王国に併合され、公式名称も「ダンツィヒ」に変更された。1807年ダンツィヒ攻囲戦から1815年にかけてのナポレオン戦争の期間は、ナポレオンの政策によって自治都市としての地位を回復した(自由都市ダンツィヒ (ナポレオン時代))。ナポレオン戦争が終結すると、ダンツィヒは再びプロイセン王国の支配下に置かれ、西プロイセンのダンツィヒ地方の行政中心地とされた。ダンツィヒでは住民のドイツ文化への同化政策が徹底的に行われ、住民の多くはドイツ人(バルト・ドイツ人)となっていった。
近代
ドイツ民族主義の過激化ドイツ民族主義の過激化に反対する活動家を逮捕するダンツィヒ警察(1933年)

第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約によりドイツ領から切り離され、どの国にも属さない国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となった。住民はドイツ人(バルト・ドイツ人)が主体でありながらポーランドが市の外交権を得た。河川についてドイツ帝国は堤防を作った。ドイツ帝国は建て替えを仕向けるためにあえて放置すると僅か数年で堤防は破損し、氾濫が頻発した。しかもドイツ人達は河川の氾濫をポーランドの仕業と見なして反ポーランド主義を高めたために、堤防の再建は停滞した。地元経済の活性のため、水揚げしやすいように大きな砂州が作られると、裕福な少数のドイツ系商人は商品運行を遮られるとして敵意を抱いた。また同様の理由から、30kmに設けられた。ドイツは本土からダンツィヒに向けてドイツ人を移住させた。さらにダンツィヒ港はポーランドの製品に対して関税をかけた。ポーランドはこの敵対的政策に対抗して、グディニャ港を建設した。ポーランドからの製品のうち、高付加価値のものは最新のグディニャ港から輸出され、木材などかさばる割りにあまり価値のない品物の輸出にのみダンツィヒ港が使われるようになった。これによってダンツィヒの経済は停滞した。これはダンツィヒのドイツ系住民の民族主義を強め,この結果市の議会では1933年ナチスが第一党となりポーランド系住民やカシューブ系住民に対する弾圧が行われた。ナチスが支配したダンツィヒの市民は自衛団をはじめとした民兵組織に参加し、これら民兵組織の構成員をドイツ本土に送って軍事訓練をさせ対ポーランド戦争を準備した。ダンツィヒ港にはドイツ本土から大量の武器弾薬が次々と送り込まれた。ナチス親衛隊の構成員も一般市民を装って大規模に潜入した。
第二次世界大戦ダンツィヒのポーランド郵便局を攻撃する武装親衛隊(1939年9月)

1939年ポーランド侵攻に際して、同市に潜入していた親衛隊の一部や友好訪問を名目に港内に停泊していたドイツ海軍練習艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインの海軍陸戦隊が同市を制圧した。郊外にヴェステルプラッテに駐屯していた180人ポーランド守備隊は3500人のドイツ兵を相手に勇敢に戦ったが、ドイツ側の物量には勝てず、7日間の激戦の後に弾薬と医薬品が尽きたため降伏した。ダンツィヒはドイツに占領された。ナチスの秘密警察は、戦争が始まる前の1936年からポーランド系住民の内偵調査をしてリストを作成しており、この占領によって数千人のポーランド人がリストに則って一斉に逮捕され、強制収容所に送られるか、近くの森で射殺された。第二次世界大戦末期、多くのドイツ人がソ連軍の進撃を逃れ西に避難、残っていたドイツ系住民もヤルタ協定により戦後にドイツへ強制移住させられた。ダンツィヒはドイツ軍連合国軍との激しい戦闘により大半が破壊された。


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