1952年にポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒはもとの「グダニスク」を公式名称としてポーランド領に編入された。実に159年ぶりのポーランド領への復帰であった。旧市街など、戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料をもとにポーランド人の手によって完全に復元された ⇒[1]。新生グダニスクは造船業と貿易を主要な産業として大いに発展したが、1970年代のオイルショックによって経済が低迷し、ソビエト連邦が支配するコメコンの経済体制に対する不信から民主化運動と労働運動が始まるようになった。
1970年12月には市内で暴動が発生、シチェチンなどへ波及するきっかけとなった。同年12月17日、ツィランキェヴィチ首相は事実上の戒厳令とデモに対して発砲許可を出したことを表明。政府は暴動を「ならず者のしわざ」と位置付けて弾圧した[10]が、1980年代の民主化を要求する運動への下敷きとなった。 1980年代初め、ポーランドを民主化に導く「連帯」の指導によるグダニスク造船所労働者のストライキが行われ、こうした運動が1989年のポーランド民主化につながった。1990年には「連帯」指導者だったレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)がポーランド大統領になった。2007年にはグダニスク出身の若き政治家ドナルド・トゥスクがポーランド首相となった。現在のグダニスクはポーランド最大の観光地の一つで、内外の多くの観光客でにぎわい、また主要貿易港の一つでもある。ポーランド北部の文化の中心地でもあり、一年を通じて多くの文化的催しが行われている。ポーランド市民が精密に復元したグダニスク旧市街はその文化的価値が認められ、ユネスコの世界遺産の暫定リストに載っており、そう遠くないうちに世界遺産として正式登録される見込みである。 2019年1月に当時市長であったパヴェウ・アダモヴィチ(Pawe? Adamowicz)が暴漢に襲われて殺害される事件が起こり[11]、暫定的に市長職の代行を務めていたアレクサンドラ・ドゥルキェヴィチ
民主化、経済・文化の発展 ― 第二の黄金時代へ
グダニスクの町はグダニスク湾に面しており、市の北部には、第二次世界大戦開戦のきっかけとなったヴェステルプラッテという小さな半島がある。また外海に臨む一帯には長大な砂洲であるヘル半島があり、鉄道や道路が通り漁村も点在していて、景勝の地となっている。グダンスクの運河やヴェステルプラッテの桟橋からはヘル半島の中間地点の漁港のヤスタルニア(Jastarnia)や半島突端のリゾート村のヘルまでフェリーが出ている。また、グダニスクからはヘル半島を通って突端のヘルまで鉄道も道路も通っている。グダニスクの近くにはグディニャ、ソポトがあり、これら3つの都市はまとめて「三連都市(Trojmiasto)」と呼ばれる。また近郊の町オリーヴァの教会には、世界的に有名なパイプオルガンがある。市の中心部はヴィスワ川の一支流レニフカ川(Leniwka)に注ぐモトワヴァ川(Mot?awa)の河口に位置し、一般にグダニスクという都市名はグディニャともども、モトワヴァ川の古名グダニャ川(Gdania)に由来するとされ、これはインド・ヨーロッパ祖語で「河」を意味するdan(u)という語幹を持っている。 バルト海に面しているため、ポーランド内陸部に比べると、夏は暑くなく、冬も比較的暖かい海洋性の温和な気候である。夏は雷雨が起こりやすく、年に数日程度は30度を超えることもある。冬は積雪となることもあり、時に気温が-15度を下回ることもある。 グダニスクの気候
気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)11.2
(52.2)12.8
(55)19.7
(67.5)25.8
(78.4)29.3
(84.7)32.1
(89.8)34.9
(94.8)34.2
(93.6)30.2