グダニスク
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1308年11月13日、グダニスクではヴワディスワフ1世 (ポーランド王)によってドイツ騎士団が招聘され、ブランデンブルク辺境伯とドイツ騎士団により管理された[7]。植民地化にされた。1320年/ 1330年頃に、騎士と都市貴族による組織が生まれ、商人層の株式市場や集会場としても使用される社交場が建設されたが、その建物は極めて洗練されたものだった。組織も建物もアーサー王に因んで「アーサー王宮廷」(ドイツ語で <Artushof>)と呼ばれていた(Cord Meckseper)[8]

1343年にカリシュの和約(英語版)が結ばれ、騎士団がポーランド王国に賃料を支払うことでポーランド王からポメラニア地方がドイツ騎士団に貸与されることとなった。この地方の帰属問題はまだ残っていた。

グダニスクはドイツ騎士団の支配下で街とし近代化され経済成長し、国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ商人と一緒に招聘された。ドイツからの移民が増加し、 1361年ハンザ同盟の正式な貿易加盟都市となり、穀物(特に小麦)、木材、炭酸カリウムタールその他ポーランドの森から産出されヴィスワ川の運送網を経由してやってくるさまざまな品物の輸出が促進される事になった。グダニスク市民は、ドイツ都市法マクデブルク法による税や裁判制度などを理由にドイツ騎士団の支配を嫌っており、グダニスクを含むポメラニア地方やリトアニア大公国などに関する一連のトラブルが発端で1409年に勃発したポーランドとドイツ騎士団との戦争では、グダニスク市民はポーランド側に就いた。この戦争は1410年グルンヴァルトの戦いにおけるポーランド王国の勝利によって終結した。グダニスクは以前からドイツ騎士団の支配を廃してポーランド王国へ帰属することを望んでおり、その望みがかなうことになった。しかし翌年に締結した第一次トルンの和約では、行政上の技術的理由によりポーランド王国は再びドイツ騎士団にグダニスクを賃貸しすることに決め、グダニスクは騎士団の支配下に戻った。
近世17世紀の繁栄の様子
黄金時代

1440年、グダニスクはドイツ騎士団に対抗したプロイセン同盟の設立に参加し、ドイツ騎士団の利権の排除を目指してポーランド王国と同盟し、13年戦争を起こした。13年戦争は1457年5月25日にポーランド側の勝利によって終結し、ポーランド王カジミェシュ4世によってグダニスクはポーランド王国の自治都市としての特権を与えられた。グダニスクはハンザ同盟の他の諸都市との貿易に加えて、ポーランド国内の市場への参加も認められるようになり、以後大いに繁栄することになった。1466年にポーランド王国とドイツ騎士団との間で締結された第二次トルンの和約と、王領プロイセンの確立によって、ポーランド王国とドイツ騎士団との戦争は完全に終結した。これによってグダニスクはドイツ騎士団の利権を完全に排除して大幅な自治権を実質的にも確立することになり、これは1577年に再確認された。

こうしてポーランド王国の直接の庇護を得た16世紀17世紀は、グダニスクの貿易と文化にとって「黄金時代」であった。市民はドイツ人が比較的多かったが、ポーランド人ユダヤ人オランダ人も多数住んでいた。さらにスコットランド人難民もやってきて市民権を得た。有名な天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが業績を残したのもこの時代であるが、彼の父親はチェコ人移民でグダニスクでビール醸造業を営んでいた。これら多民族の住民が混住することにより、街は繁栄を極めた。宗教改革の時代には多くの市民がルーテル派(主にドイツ系やポーランド系の中産階級)やカルヴァン派(主にオランダ系やスコットランド系の中産階級やポーランド人貴族)を受け入れた。しかしカトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。これは時代によって程度の違いこそあれ、ポーランド王国には一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土があったからである。
ポーランド王国の消滅以降プロイセンからグダンスクを奪取するナポレオン軍(1807年)

18世紀、度重なる戦争によってグダニスクの経済は徐々に衰退していった。1734年ダンツィヒ攻囲戦ではロシアに占領された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef