グスタフ・マーラー
[Wikipedia|▼Menu]
1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(23歳)、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。1885年1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。1886年8月(26歳)、ライプツィヒ歌劇場で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』を作曲する。
指揮者・交響曲作曲家としての活躍ウィーン宮廷歌劇場メトロポリタン歌劇場

1888年(28歳)、『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。10月、ブダペスト王立歌劇場芸術監督となる。1889年1月(28歳)、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。1891年4月(30歳)、ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。1892年1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われたピョートル・チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。

1894年12月18日(34歳)、『交響曲第2番ハ短調』が完成。1895年2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。1896年(36歳)、シュタインバッハ(ザルツカンマーグートアッター湖近く)にて『交響曲第3番ニ短調』を書く。

1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリック改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(ドイツ語版)(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。

1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。

12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか[14]」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。

夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。10月(42歳)、長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が誕生する。1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。1904年4月、シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第6番イ短調』を書き上げ、『交響曲第7番ホ短調』の2つの「夜曲」を作曲。1905年夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。
晩年と死夏休みに別荘付近を散歩するマーラー夫妻(1909)マーラーの眠る墓

1907年(47歳)、長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された。12月、ニューヨークメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米し、『交響曲第8番変ホ長調』を完成。しかし翌1908年5月にはウィーンへ戻る。トーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプスドッビアーコ)にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。

1909年(49歳)、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトーブラッハで『交響曲第9番ニ長調』に着手し、約2カ月で完成させた。10月に再び渡米。体調も回復し旺盛な指揮活動を続ける。

1910年4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際クロード・ドビュッシーポール・デュカスと会う。8月(50歳)、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にはミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。10月にニューヨークに戻る。

1910年冬からの演奏会シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックで精力的に演奏会活動を続けていたが、冬に咽喉炎を患い、翌1911年2月(50歳)にも発熱。連鎖球菌による感染性心内膜炎と診断され、パリで治療を受けるが回復の見込みが立たず。最終的に病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。暴風雨の夜だった。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)![15][注釈 4]」だった。長女マリア・アンナと同じ、ウィーン郊外のグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない[16][17]

なお、アルマの墓はその斜め後ろにあり、アルマの2番目の夫との娘でアルバン・ベルクヴァイオリン協奏曲を捧げたマノン・グロピウスと共に埋葬されている。
人物1909年のマーラー

出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている[18][注釈 5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:112 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef