その後はマルクス内閣に外務大臣として入閣。続く複数の内閣で外相を務めた彼はフランスとの関係正常化に努め、1924年にドーズ案によって賠償金の減額に成功、1925年にはイギリス・フランス・イタリア・ベルギーとロカルノ条約を締結し相互不可侵を約し、ドイツは国際連盟への加盟を認められた。このロカルノ条約の締結に尽力したとして翌1926年にアリスティード・ブリアン(フランス外相)と共にノーベル平和賞を受賞した。彼はフリーメイソンの会員であった。国際汎ヨーロッパ連合の共同設立者でもあるフランス首相エドゥアール・エリオなどもそう確信していたというが、彼は実際にフリーメイソンであり、当時それが広く知られていたことは、ドイツの愛国主義者から非難される要因となった[1]。スイスのフリーメイソン団体はシュトレーゼマンに「ブラザー(つまりフリーメイソン)・ブリアン」とともにノーベル賞を受賞したことへの祝い状を送った[1]。
死去と評価ベルリンにあるシュトレーゼマンの墓
1928年、ハイデルベルク大学から名誉博士号を贈られる。しかし外務大臣としての激務からその頃から体調を崩しがちになり、1929年に脳卒中のため急死した。直後に世界大恐慌が始まり、彼の死は経済恐慌と結びつけられて、ヴァイマル共和国の平和な時代の終わりを告げる画期としてとらえられている。
かつての敵国であるイギリス・フランスと和解し欧州統合の先駆けを作った政治家としてシュトレーゼマンは記憶されているが、彼自身はヴェルサイユ条約改正論者でありオーストリア併合を含むドイツ東部国境の見直しを目指していたとされるが、オーストリア併合については実現可能性について懐疑的であったとの見方もある。1928年にレイモン・ポアンカレと会談した際、ドイツとオーストリアの大多数の国民は合併を支持しているが、「政治においては、感情の問題と政治的現実とを区別することが必要である」と述べたという[2]。従って、例えばポーランドに対しては領土問題で強硬的な姿勢を崩していない。賠償金の履行政策やロカルノ条約・国際連盟加盟といった一連の協調外交も条約改正という自国の国益を目指しつつ推進したものであった。 シュトレーゼマンはモーニングコートやフロックコートに代わり執務服としてディレクターズスーツを導入し、晩年は会談の席でも着用したことから大陸ヨーロッパではディレクターズスーツを『シュトレーゼマン』と呼ぶことがある。 子息のウォルフガング・シュトレーゼマン(1904年 ? 1998年)は法律家となり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の支配人を長期間務めてヘルベルト・フォン・カラヤン率いるベルリン・フィルの全盛期を支えた。
人物
脚注^ a b de Hoyos, Arturo; Morris, S. Brent, eds (2004). Freemasonry in Context: History, Ritual, Controversy
^ (牧野雅彦『ロカルノ条約――シュトレーゼマンとヨーロッパの再建』(中央公論新社[中公叢書]、2012年) pp.231)
外部リンク
⇒ドイツ歴史博物館経歴紹介 (ドイツ語)
公職
先代
フレデリック・フォン・ローゼンベルク(英語版) ドイツ国外務大臣
1923年 - 1929年次代
ユリウス・クルティウス(英語版)
先代
ヴィルヘルム・クーノ ドイツ国首相
第7代:1923年次代
ヴィルヘルム・マルクス
表
話
編
歴
ノーベル平和賞受賞者 (1926年-1950年)
アリスティード・ブリアン / グスタフ・シュトレーゼマン (1926) - フェルディナン・ビュイソン / ルートヴィッヒ・クヴィデ (1927) - フランク・ケロッグ (1929) - ナータン・セーデルブロム (1930) - ジェーン・アダムズ / ニコラス・バトラー (1931) - ラルフ・ノーマン・エンジェル (1933) - アーサー・ヘンダーソン (1934) - カール・フォン・オシエツキー (1935) - カルロス・サアベドラ・ラマス (1936) - ロバート・セシル (1937) - ナンセン国際難民事務所 (1938) - 赤十字国際委員会 (1944) - コーデル・ハル (1945) - ジョン・モット / エミリー・グリーン・ボルチ (1946) - アメリカ・フレンズ奉仕団 / イギリス・フレンズ協議会 (1947) - ジョン・ボイド・オア (1949) - ラルフ・バンチ (1950)
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