クリムトは、同時代の多くの芸術家同様、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている。日本文化への深い傾倒は、甲冑や能面などの美術工芸品を含むプライベートコレクションからも明らかで、1900年分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントであった。特に浮世絵や琳派の影響は、クリムトの諸作品の基調あるいは細部の随所に顕著に見て取れる。
クリムトはかなりの数の風景画も残している。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものである。その代表作でもある『アッター湖の島』は、クリムトの風景画のなかでもっとも大胆な構図をとったもののひとつであり、クリムトがアメリカで一躍脚光を浴びるきっかけをつくったとされている[3]。 詳細はクリムトの絵画一覧
代表作
『音楽』 - (1895年、ノイエ・ピナコテーク)
『パラス・アテナ』 - (1898年)
『ユディトI(英語版)』 - (1901年、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館)
『ベートーヴェン・フリーズ(英語版)』 - (1901年 - 1902年、セセッション館)
『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』 - 哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの姉 (1905年、ノイエ・ピナコテーク)
『生命の樹』 - (1905年 - 1909年、ストックレー邸のフリーズ)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』 - (1907年、個人蔵。2006年、絵画として当時の最高値の156億円で売却。ノイエ・ギャラリー(ニューヨーク)に展示されている)
『接吻』 - (1907年 - 1908年、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館)
『ダナエ』 - (1907年 - 1908年、個人蔵)
『死と生』 - (1915年、レオポルド美術館。2022年、環境活動家によって油性の黒い液体をかけられた[4])
日本にあるクリムト作品『アッター湖の島』1901-1902年『人生は戦いなり(黄金の騎士)』1903年『オイゲニア・プリマフェージの肖像』1913年-1914年
『アッター湖の島』 - (1901-1902年、個人蔵) 油彩・キャンバス 100.5x100.5cm 2023年5月にサザビーズ・ニューヨークのオークションにて日本人の個人コレクターによって5,320万ドルで落札[3]
『 ⇒左を向いた少女』 - (1880年頃、東京富士美術館) 油彩・キャンバス 24.0x16.8cm
『森の奥』 - (1881年-1882年、飛騨高山美術館)油彩・キャンバス 11.5x15.6cm
『人生は戦いなり(黄金の騎士)(文化遺産オンライン)』 - (1903年、愛知県美術館)油彩 テンペラ 金箔・キャンバス 100.0x100.0cm トヨタ自動車の寄付金により約17.7億円で購入
『オイゲニア・プリマフェージの肖像』- (1913年 - 1914年、豊田市美術館)油彩・キャンバス 140x85cm トヨタ自動車の寄付金により約18億円で購入
『 ⇒女の胸像』 - (1897年-1898年、姫路市立美術館) 黒チョーク・紙 45.2x32.3cm
『 ⇒立つ女の半身像』 - (1903年、姫路市立美術館) 黒チョーク・紙 45.3x32.2cm
『読書する婦人』 - (1908年、イセ文化財団)鉛筆・紙 54.3x36.5cm
『腰に手をあてる裸婦』 - (1916年-1918年、イセ文化財団)鉛筆・紙 57.1x37.5cm
『若い女の横顔』 - (制作年不詳、豊田市美術館)鉛筆・紙 30.5x39cm
『無題』 - (制作年不詳、宮城県美術館(佐藤忠良コレクション)) 鉛筆 色鉛筆・紙 55.2x35cm
『第1回オーストリア造形芸術家協会(ウィーン分離派)展』(文化遺産オンライン)』 - (1898年、宇都宮美術館) ポスター(リトグラフ) 64.0x50.0cm
『第1回ウィーン分離派展』 - (1898年、川崎市民ミュージアム) ポスター(リトグラフ) 63.2x46.2cm
ギャラリー
『法学』(1899年 - 1907年)
『医学』(1899年 - 1907年)
『哲学』(1899年 - 1907年)
『ベートーヴェンフリーズ』(1901年 - 1902年)
『ベートーヴェンフリーズ』
『希望T』(1903年)
『水蛇I』(1904年 - 1907年)
『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』(1905年)
『フリッツア・リードラーの肖像』(1906年)
『バージン』(1913年)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
『ダナエ』(1907年 - 1908年)
『ユディトII(オランダ語版)』(1909年)
『メーダ・プリマヴェージ』(1912年)
『死と生』(1915年)
脚注[脚注の使い方]^ Bitsori M., Galanakis E. " ⇒Doctors versus artists: Gustav Klimt's Medicine." BMJ. 2002 Dec 21;325(7378):1506-8. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}PMID 12493684 -イギリス医師会雑誌2002年年末特集号の表紙として『医学』が選ばれた際の解説。