グアテマラは生物学的に重要でユニークな生態系が豊富で、多くの固有種を含み、メソアメリカの生物多様性ホットスポットの指定に貢献している。 正式名称は、Republica de Guatemala(スペイン語: レプブリカ・デ・グアテマラ)。通称、Guatemala [gwate?mala]
国名
公式の英語表記は、Republic of Guatemala(リパブリック・オブ・グワーテマーラ)。通称、Guatemala [??w??t??m??l?, ?wa-]。
日本語の表記は、グアテマラ共和国。通称、グアテマラ。グァテマラやガテマラと表記されることもある。
国名の由来については、現在の有力な説(マヤ言語アカデミー)として、ナワトゥル語で「森林の大地」を意味する「グアテマヤン」という先住民語が変化して「グアテマラ」になったというものである[10]。
歴史詳細は「グアテマラの歴史」を参照
先コロンブス期ティカルの神殿詳細は「マヤ文明」を参照
紀元前1800年ごろに太平洋岸にバラ相の土器文化が興り、テコマテと呼ばれる祭祀に用いられたと考えられる無頸壺の器形で知られる。バラ相にメソアメリカ最古に属する土偶も作られた。先古典期中期初頭の紀元前900年ごろ、パシオン川流域のセイバルとアルタル・デ・サクリフィシオスに集落が形成された。やがて、先古典期中期後葉になるとナクベに高さ18メートルに達する大規模な建物が造られた。一方、南部の高地にはカミナルフューにラス・チャルカスの精巧な土偶をともなう文化が興った。先古典期後期には、紀元前500年以降ペテン低地にワシャクトゥンやエル・ミラドールなどのマヤの大規模な都市が出現する。南部の高地には、イサパ文化の影響を受けた石碑をともなうアバフ・タカリク、エル・バウル、カミナルフューなどの祭祀センターが築かれた。
古典期には、378年にティカルにメキシコのテオティワカンゆかりの強力な王朝が建てられ、メキシコ、カンペチェ州のカラクムルと「優越王」として覇を争うようになる。古典期になると、カミナルフューもテオティワカンに征服される。エル・バウルを含めた周辺区域には、ナワ語系のピピル族によるといわれるコツマルワパ様式の祭祀センターが築かれた。10世紀初頭までにペテン低地の祭祀センターは放棄されたが、グアテマラ高地のマヤ系諸王国はスペイン人に征服されるまで存続した。後古典期に入ると、11世紀ごろから北方のチチメカ族が侵入した影響を受け、キチェ王国(スペイン語版、英語版)やカクチケル王国(Reino Kakchiquel)に、チチメカ様式の影響を受けた都市が築かれた。
スペイン植民地時代スペイン人のコンキスタドール、ペドロ・デ・アルバラード「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照「グアテマラの征服(スペイン語版、英語版)」および「ペテン盆地の征服(スペイン語版、英語版)」も参照
1492年にクリストーバル・コロンがアメリカ大陸を「発見」すると、現在のグアテマラに相当する地域にもヨーロッパ人の征服者が訪れた。1523年に現れたスペイン人の征服者、ペドロ・デ・アルバラードは、1524年にはこの地域を征服した。アルバラードはカクチケル族の協力を得て、グアテマラの地を支配していたキチェ族の都クマルカフ (ウタトラン)を1524年に攻略し、カクチケル族の都イシムチェに本拠地を構えた。しかし、カクチケル族との同盟関係はごく短い期間で決裂し、カクチケル族は都を放棄して征服に抵抗するようになった。1526年に脱走兵の放火によってイシムチェは破壊され、アルバラードは現在のシウダー・ビエハに新しい首都を建設。さらに、イシムチェの近くにあるテクパン(スペイン語版、英語版)に都を移したが、1541年7月にアルバラードは死に、同1541年9月にアグア火山の噴火によってテクパンは壊滅してしまう。その後、現在のアンティグア・グアテマラが首都となった。
1544年、スペインはグアテマラ総督領を置き、自治権を与えた。