グアテマラ革命
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アルベンスが近代化の要としたのは農地改革法案 (es:Decreto 900) だった[34]。アルベンスは共産党および非共産党の経済学者の助けを得て、法案を自ら起草した[35]。法案は1952年6月17日に議会を通過し、即日発効した。改革の根幹は大土地所有者の所有する耕作されていない土地を貧困にあえぐ労働者に譲渡し、彼らが自分自身の農地として使うことができるようにするというものだった[34]

アメリカ合衆国からの要請によって1951年に世界銀行がグアテマラに対する借款を拒絶したため、深刻な資金不足が生じていた。農地改革法案は公共インフラ計画に必要な資金を捻出するためにも必要とされた[36]

土地を徴用された所有者はその土地の価格に等しい金額を政府によって補償された。土地の価格自身は1952年の税金申告にもとづいて決められた[36]。35万人の私有地所有者のうち、この法案に影響されたものは1710人だけだった。法自身は穏健な資本主義の枠組みの中に収まるものだったが、急速に実行されたために、時に恣意的な土地の差し押さえや、土地所有者や小さな土地を所有する農民による暴力が発生することもあった[36]

1954年6月までに140万エーカー(57万ヘクタール)の土地が徴用・再配布され、人口の1⁄6にあたる50万人が土地を割り与えられた[36]。1953年7月7日には国立農業銀行(Banco Nacional Agrario, BNA)が設立され、土地を得た人々のために小口の貸出を行い、1954年6月までに貸出額は900万ドル以上にのぼった。53,829人が平均225ドルを借り、これはグアテマラのひとり当たり収入の2倍にのぼる[36]。返済率も高く、1953年3月から11月に貸した3,371,185ドルのうち、1954年6月までに3,049,092ドルが返済された[36]。法はまた再配布した土地の中の道路の国有化を提供し、地方の交通を大幅に改良した[36]

農地改革法によってグアテマラの農業生産性はわずかに向上し、耕地が増大した。農業機械の購入も進んだ[36]。全体として法は主に先住民から構成される農民家庭の生活水準を大幅に向上させた[36]。歴史学者Piero Gleijesesによれば、比較的少なかった恣意的な土地の差し押さえにくらべ、この法によって正された不公正は遥かに大きかった[36]。歴史学者Greg Grandinによれば、この法には多くの欠陥があり、特に農園主に対して丁重に過ぎ、農民間の社会分断を生んだが、にもかかわらず従来周縁化していた人々に有利になる基本的な権力の移動を代表している[37]
ユナイテッド・フルーツとの対立

ユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFC)は長年ウビコ政権と関係を持ってきたため、1944年革命後のグアテマラの発展の障害物と見なされていた。UFCが有色人種を差別したために会社のイメージはさらに悪化した[38][39]。UFCはグアテマラ最大の土地・雇用者を所有しており、アレバロ政権の改革の影響をもっとも強く受けた。中でも政府が通過した労働法規は賃金の上昇や雇用確保を求めるための労働者のスト権を認めていた。UFCは改革が自社を標的にしたものと見なし、新法規に反するにもかかわらずストライキに対して交渉することを拒絶した[40]。1952年のアルベンス政権による農地改革法も同社には問題になった。UFCの所有する22万ヘクタールの土地のうち耕作されていたのは15%のみであり、それ以外の休閑地が農地改革法の対象とされた[40]

UFCはアメリカ合衆国政府に対してロビー活動を行い、議員の多くはグアテマラ政府がUFCの利益を保護しないことを非難した[41]。これに対してグアテマラ政府は、UFCが国家発展のための主な障害であると答えた。アメリカの歴史学者たちは「グアテマラ人にとっては、巨大な利益を得ながら国家の福利にいかなる貢献もしない外国企業によって国家が無慈悲に搾取されていると考えられていた」と述べている[41]

1953年に20万エーカー(81,000ヘクタール)の未耕作地が政府に徴用され、1エーカーあたり2.99ドルが支払われたが、これはUFCが土地を買ったときの価格の2倍だった[41]。その後土地はさらに徴用されて全体で40万エーカー(16万ヘクタール)に達した。政府はUFCが納税目的で評価した価格を補償として支払った[40]。これに対してUFCはさらなるロビー活動を、とくにUFCと密接な関連をもつ国務長官ジョン・フォスター・ダレスに対して行った[41]。UFCはPR専門家のエドワード・バーネイズを雇用し、UFCが何年もの間グアテマラ政府の被害者になっていると印象づけた[42]。1952年にドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任するとさらに調子を強め、タカ派の会社に依頼してグアテマラ政府に批判的な235ページの報告書を作成させた[43]。歴史学者はこの報告書を「誇張、下劣な表現、奇妙な歴史理論」に満ちていると述べている[43]。しかしながらこの報告書を送った議員たちには重要な影響を及ぼした。UFCはアメリカの議員や一般人にグアテマラ政府を倒す必要があると考えさせるために50万ドル以上を費した[43]
CIAのクーデター詳細は「PBSUCCESS作戦」を参照

グアテマラ革命中、中央アメリカの他の諸国であるエルサルバドルホンジュラスバティスタ政権下のキューバでは強い反共主義の政府が成立し、アレバロによるカリブ軍団への支援をさらに悪化させたアルベンス政権との間に緊張が高まっていた[44]。UFCの問題に加えてこのこともアメリカ合衆国および新設された中央情報局(CIA)の関心事になっていた。歴史学者リチャード・イマーマンによると、冷戦の間、アメリカ合衆国とCIAは自分に反対する勢力をすべて共産主義者と規定する傾向があった。このため、アレバロが共産党を非合法としたにもかかわらず、アメリカ政府は革命政府に共産党が浸透しており、したがってアメリカにとって危険であると信ずる向きがあった[45]。革命中にアメリカ政府内で配布された報告書やメモはこの確信を高めた[45]

トルーマン政権下では1944年にグアテマラ政府に対して武器を禁輸した。1951年にはグアテマラが他の国から武器を購入することも妨害した。1952年にトルーマンはアルベンス政権の転覆計画を密かに立てたが[46]、国務長官ディーン・アチソンの説得によって中断された[46][47] (Operation PBFortune) 。

1952年11月にドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任すると一層反共的な傾向が強まり、また国務長官ジョン・フォスター・ダレスおよびその弟でCIA長官のアレン・ウェルシュ・ダレスはUFCと密接な利害関係を持っていた。このことがアイゼンハワーをアルベンス政権転覆に向かわせることになった[48]


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