グアテマラ革命
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グアテマラとエルサルバドルの2国は1945年に同盟を発表したものの、両国の国内問題によって実現は遅れ、1948年にカスタネダ・カストロ政権がオスカル・オソリオ(英語版)のクーデターによって倒されたためにこの案は流れた[28]
1949年のクーデター危機

十月革命の立役者のひとりであるフランシスコ・ハビエル・アラナは民間に政権を渡すことに反対し、まず1944年の選挙を延期しようと試み、その後は選挙を無効化しようとした。アレバロを大統領として認めるのとひきかえにアラナは防衛相の上に新設されたグアテマラ軍長官(Jefe de las Fuerzas Armadas de Guatemala)の地位を獲得した。この地位は任期が6年間で、軍の人事すべてを支配した。1945年12月、アレバロは自動車事故にまきこまれて重傷を負った。クーデターを恐れる革命行動党(PAR)はアラナと取引し、1950年の選挙で党がアラナを支持するかわりにクーデターを起こさないことに合意した[29]

アレバロの改革を脅威と見なす大土地所有者の支持をアラナは集めた。1948年の議会選挙でアラナは多くの対立候補を支援したが、すべて落選した。1949年には国家刷新党(PRN)と革命行動党のいずれもアラナと敵対し、人民解放戦線(FPL)の一部だけがアラナを支持した。一方左翼諸党は軍事将校のみがアラナに勝つことができると考えてアルベンスを支持した[30]

1949年7月16日、アラナはアルバロ大統領に最後通牒を送り、アルベンスの支持者を内閣と軍から追放することを要求し、要求がいれられなければクーデターを起こすと脅迫した。アルバロとアルベンスは会合を持ち、アラナの追放が必要であることで一致した。その2日後、アレバロ大統領とアラナが会合を持ったときにアルベンスの手勢によって銃撃が行われ、アラナ本人を含む3人が射殺された。軍のアラナ派は反乱を起こしたが、指導者を欠いた反乱は約150人の死者と200人の負傷者を出して失敗し、カルロス・カスティージョ・アルマスを含むアラナ派は亡命した。この事件の詳細は公開されなかった[31]
アルベンス大統領

アルベンスは防衛相としてすでに次期大統領の主要な候補であったが、クーデター危機への対応によってさらにその威信が高まった。1950年に中道の国家統一党(PIN)がアルベンスを大統領候補として発表し、革命行動党を含む左翼政党や労働組合の賛同を得た[32]。他の主要な候補には、革命を行きすぎと考える上流・中流階級の支持を得たホルヘ・ガルシア・グラナドスと、ウビコ政権下で将軍をつとめ、革命に強く反対するミゲル・イディゴラス・フエンテスがあった。選挙運動でアルベンスはアレバロの改革を継続・拡大することを約束した[33]。1950年11月15日に選挙が行われ、アルベンスが60%を越える票を得た。1951年3月15日にアルベンスは大統領に就任した[32]
農地改革農地改革を宣伝するポスター

アルベンスが近代化の要としたのは農地改革法案 (es:Decreto 900) だった[34]。アルベンスは共産党および非共産党の経済学者の助けを得て、法案を自ら起草した[35]。法案は1952年6月17日に議会を通過し、即日発効した。改革の根幹は大土地所有者の所有する耕作されていない土地を貧困にあえぐ労働者に譲渡し、彼らが自分自身の農地として使うことができるようにするというものだった[34]

アメリカ合衆国からの要請によって1951年に世界銀行がグアテマラに対する借款を拒絶したため、深刻な資金不足が生じていた。農地改革法案は公共インフラ計画に必要な資金を捻出するためにも必要とされた[36]

土地を徴用された所有者はその土地の価格に等しい金額を政府によって補償された。土地の価格自身は1952年の税金申告にもとづいて決められた[36]。35万人の私有地所有者のうち、この法案に影響されたものは1710人だけだった。法自身は穏健な資本主義の枠組みの中に収まるものだったが、急速に実行されたために、時に恣意的な土地の差し押さえや、土地所有者や小さな土地を所有する農民による暴力が発生することもあった[36]

1954年6月までに140万エーカー(57万ヘクタール)の土地が徴用・再配布され、人口の1⁄6にあたる50万人が土地を割り与えられた[36]。1953年7月7日には国立農業銀行(Banco Nacional Agrario, BNA)が設立され、土地を得た人々のために小口の貸出を行い、1954年6月までに貸出額は900万ドル以上にのぼった。53,829人が平均225ドルを借り、これはグアテマラのひとり当たり収入の2倍にのぼる[36]。返済率も高く、1953年3月から11月に貸した3,371,185ドルのうち、1954年6月までに3,049,092ドルが返済された[36]。法はまた再配布した土地の中の道路の国有化を提供し、地方の交通を大幅に改良した[36]

農地改革法によってグアテマラの農業生産性はわずかに向上し、耕地が増大した。農業機械の購入も進んだ[36]。全体として法は主に先住民から構成される農民家庭の生活水準を大幅に向上させた[36]。歴史学者Piero Gleijesesによれば、比較的少なかった恣意的な土地の差し押さえにくらべ、この法によって正された不公正は遥かに大きかった[36]。歴史学者Greg Grandinによれば、この法には多くの欠陥があり、特に農園主に対して丁重に過ぎ、農民間の社会分断を生んだが、にもかかわらず従来周縁化していた人々に有利になる基本的な権力の移動を代表している[37]
ユナイテッド・フルーツとの対立

ユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFC)は長年ウビコ政権と関係を持ってきたため、1944年革命後のグアテマラの発展の障害物と見なされていた。UFCが有色人種を差別したために会社のイメージはさらに悪化した[38][39]。UFCはグアテマラ最大の土地・雇用者を所有しており、アレバロ政権の改革の影響をもっとも強く受けた。中でも政府が通過した労働法規は賃金の上昇や雇用確保を求めるための労働者のスト権を認めていた。UFCは改革が自社を標的にしたものと見なし、新法規に反するにもかかわらずストライキに対して交渉することを拒絶した[40]。1952年のアルベンス政権による農地改革法も同社には問題になった。UFCの所有する22万ヘクタールの土地のうち耕作されていたのは15%のみであり、それ以外の休閑地が農地改革法の対象とされた[40]

UFCはアメリカ合衆国政府に対してロビー活動を行い、議員の多くはグアテマラ政府がUFCの利益を保護しないことを非難した[41]。これに対してグアテマラ政府は、UFCが国家発展のための主な障害であると答えた。アメリカの歴史学者たちは「グアテマラ人にとっては、巨大な利益を得ながら国家の福利にいかなる貢献もしない外国企業によって国家が無慈悲に搾取されていると考えられていた」と述べている[41]

1953年に20万エーカー(81,000ヘクタール)の未耕作地が政府に徴用され、1エーカーあたり2.99ドルが支払われたが、これはUFCが土地を買ったときの価格の2倍だった[41]。その後土地はさらに徴用されて全体で40万エーカー(16万ヘクタール)に達した。政府はUFCが納税目的で評価した価格を補償として支払った[40]。これに対してUFCはさらなるロビー活動を、とくにUFCと密接な関連をもつ国務長官ジョン・フォスター・ダレスに対して行った[41]。UFCはPR専門家のエドワード・バーネイズを雇用し、UFCが何年もの間グアテマラ政府の被害者になっていると印象づけた[42]。1952年にドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任するとさらに調子を強め、タカ派の会社に依頼してグアテマラ政府に批判的な235ページの報告書を作成させた[43]


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