グアテマラ革命
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第二次世界大戦中に彼はアメリカ合衆国がパナマ運河を守るための空軍基地をグアテマラ国内に設置することを許可した[6]。前任者と同様にウビコもユナイテッド・フルーツ・カンパニーに大幅な特権を与え、港の建設とひきかえに20万ヘクタールの公有地の使用を認めたが、後に経済危機を理由として港の建設は免除した[7]

第二次世界大戦はグアテマラの社会不安を増大させ、ウビコ政権は抗議運動をより激しく鎮圧するようになった[8]。1944年にエルサルバドルで反乱が発生してマクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス大統領を辞任させた。反乱はグアテマラに飛び火し[9]、ウビコは6月に辞任した[10]

その後は3人の将軍による軍事評議会(フンタ)が政権を執り、フアン・フェデリコ・ポンセ・ヴァイデス将軍が臨時大統領に就任した[11][12]。彼は選挙を行うことを約束したが、その一方で抗議運動を鎮圧し[13]、出版の自由を停止し[13]、正当な理由のない勾留は継続され、殺された革命家を記念する活動は禁止された[12]。軍内部の革新派は評議会に幻滅し、クーデターを計画するようになった[14]
十月革命1944年の革命評議会。左からアルベンス、トリエージョ、アラナ

1944年10月1日、反体制派の主要紙である『El Imparcial』の編集者だったアレハンドロ・コルドバが暗殺された。これを契機として軍のクーデター派はクーデターを民衆蜂起へ変化させようとして反体制運動に接近した。

10月19日、フランシスコ・ハビエル・アラナ(英語版)とハコボ・アルベンスに率いられた少数の将校がクーデターを起こし[15]、翌20日にポンセ・バイデスは無条件降伏した[14]。軍事評議会はアラナ、アルベンス、および反政府運動家のホルヘ・トリエージョの3人からなる革命評議会に取ってかわられた。新評議会は大統領と議員の選挙、および制憲議会の開催を約束した[16]

学者はポンセ・バイデスの辞任と革命評議会の成立をもってグアテマラ革命の開始とする[16]。しかし、革命評議会がすぐさま大土地所有者の利益を脅かすことはなかった。10月22日に先住民の小さな村であるパツィシア (Patzicia) で反乱が起きたが、評議会はすばやく暴力によって反乱を鎮圧し、女性や子供を含む民間人が殺された[17]
アレバロ大統領アレバロ大統領

1944年12月19日に行われた大統領選挙 (1944 Guatemalan presidential election) でフアン・ホセ・アレバロが大統領に選出された。この選挙は識字層の男性のみが選挙権を持っていたものの、自由で公正なものと考えられている[18]。同様の歴史的状況にあった多くの場合と異なり、評議会の構成員は誰も立候補しなかった[19]。主要な対立候補はアドリアン・レシーノス(英語版)だったが、選挙ではアレバロが地すべり的大勝を収め、他のすべての候補の票の合計より4倍以上多くの票を集めた[19]

1945年3月15日にアレバロは大統領に就任した。当時の国内は社会問題が山積みになっていた。ウビコ時代に無償の労働が道路建設に使えるようにされていたにもかかわらず、国内交通はまったく不整備だった。国民の70%は文盲であり、栄養不足と不健康が広がっていた。土地所有者のうち2%が農地の.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}3⁄4近くを所有し、その結果農耕地は国土の1%に満たなかった。先住民の労働者は土地を持たないか、または自給自足できないほど小さな土地しか持っていなかった。産業の3⁄4は農業であり、工業は基本的に存在しなかった[20]
イデオロギー

アレバロは「精神的社会主義」(Socialismo Espiritual)を政治哲学として掲げた。彼はマルクス主義には強く反対し、その利益が全人口に波及するように制御された資本主義を指向した[21]。大統領就任後まもなく制定された新憲法にもアレバロの哲学がよくあらわれている。この憲法は当時のラテンアメリカでもっとも進歩的なもので、文盲の女性を除くすべての人による普通選挙を義務化し、権力を分散し、複数政党制を提供したが、共産党は禁止された[21]。後にアメリカ合衆国はグアテマラ革命の思想を急進的共産主義としたが、実際にはそれほど左寄りではなく、はっきり反共主義的だった[21]


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