グアテマラ革命
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第二次世界大戦はグアテマラの社会不安を増大させ、ウビコ政権は抗議運動をより激しく鎮圧するようになった[8]。1944年にエルサルバドルで反乱が発生してマクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス大統領を辞任させた。反乱はグアテマラに飛び火し[9]、ウビコは6月に辞任した[10]

その後は3人の将軍による軍事評議会(フンタ)が政権を執り、フアン・フェデリコ・ポンセ・ヴァイデス将軍が臨時大統領に就任した[11][12]。彼は選挙を行うことを約束したが、その一方で抗議運動を鎮圧し[13]、出版の自由を停止し[13]、正当な理由のない勾留は継続され、殺された革命家を記念する活動は禁止された[12]。軍内部の革新派は評議会に幻滅し、クーデターを計画するようになった[14]
十月革命1944年の革命評議会。左からアルベンス、トリエージョ、アラナ

1944年10月1日、反体制派の主要紙である『El Imparcial』の編集者だったアレハンドロ・コルドバが暗殺された。これを契機として軍のクーデター派はクーデターを民衆蜂起へ変化させようとして反体制運動に接近した。

10月19日、フランシスコ・ハビエル・アラナ(英語版)とハコボ・アルベンスに率いられた少数の将校がクーデターを起こし[15]、翌20日にポンセ・バイデスは無条件降伏した[14]。軍事評議会はアラナ、アルベンス、および反政府運動家のホルヘ・トリエージョの3人からなる革命評議会に取ってかわられた。新評議会は大統領と議員の選挙、および制憲議会の開催を約束した[16]

学者はポンセ・バイデスの辞任と革命評議会の成立をもってグアテマラ革命の開始とする[16]。しかし、革命評議会がすぐさま大土地所有者の利益を脅かすことはなかった。10月22日に先住民の小さな村であるパツィシア (Patzicia) で反乱が起きたが、評議会はすばやく暴力によって反乱を鎮圧し、女性や子供を含む民間人が殺された[17]
アレバロ大統領アレバロ大統領

1944年12月19日に行われた大統領選挙 (1944 Guatemalan presidential election) でフアン・ホセ・アレバロが大統領に選出された。この選挙は識字層の男性のみが選挙権を持っていたものの、自由で公正なものと考えられている[18]。同様の歴史的状況にあった多くの場合と異なり、評議会の構成員は誰も立候補しなかった[19]。主要な対立候補はアドリアン・レシーノス(英語版)だったが、選挙ではアレバロが地すべり的大勝を収め、他のすべての候補の票の合計より4倍以上多くの票を集めた[19]

1945年3月15日にアレバロは大統領に就任した。当時の国内は社会問題が山積みになっていた。ウビコ時代に無償の労働が道路建設に使えるようにされていたにもかかわらず、国内交通はまったく不整備だった。国民の70%は文盲であり、栄養不足と不健康が広がっていた。土地所有者のうち2%が農地の.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}3⁄4近くを所有し、その結果農耕地は国土の1%に満たなかった。先住民の労働者は土地を持たないか、または自給自足できないほど小さな土地しか持っていなかった。産業の3⁄4は農業であり、工業は基本的に存在しなかった[20]
イデオロギー

アレバロは「精神的社会主義」(Socialismo Espiritual)を政治哲学として掲げた。彼はマルクス主義には強く反対し、その利益が全人口に波及するように制御された資本主義を指向した[21]。大統領就任後まもなく制定された新憲法にもアレバロの哲学がよくあらわれている。この憲法は当時のラテンアメリカでもっとも進歩的なもので、文盲の女性を除くすべての人による普通選挙を義務化し、権力を分散し、複数政党制を提供したが、共産党は禁止された[21]。後にアメリカ合衆国はグアテマラ革命の思想を急進的共産主義としたが、実際にはそれほど左寄りではなく、はっきり反共主義的だった[21]
労働運動

すでに1944年の抗議運動によってポンセ・バイデス大統領は浮浪防止法の強制を停止し、1945年の憲法によって同法は破棄された。1945年5月1日にアレバロは労働組合を賞賛した。新憲法によって出版の自由は保証され、グアテマラシティにおける過酷な労働環境に注目が集まった[22]。労働組合には共産主義者によるものとそうでないものがあり、アレバロ大統領は共産主義者による労働組合を弾圧したが、主に教職員組合において共産主義運動は支配的だった[23]。共産主義的でない労働組合に関してアレバロ大統領の態度は一貫せず、1945年に地方の500人未満の職場における労働組合を違法としたが、これはプランテーションのほとんどを含んでいた[23]。人数が多いためにこの法をすりぬけた数少ない労働組合のひとつがUFCによるバナナ労働者の組合だった。1946年にこの労働組合がストライキを起こすと、怒ったアルバロは新しい法規の制定までの間すべてのストライキを違法とした。

1947年に新しい労働法規が議会を通過した。この法は多くの点で革命的であり、「年齢・人種・性別・国籍・宗教的信条・政治団体への帰属」によって給料の差別を設けることを禁止した[24]。職場の健康と安全の標準を提供し、1日8時間労働と週に45時間労働を標準化したが、プランテーションのロビーの圧力を受けて議会はプランテーションをこの規定の例外とした。この法規はまたプランテーションの所有者に労働者の子供たちのための小学校を建設することを義務づけ、労働者の地位を権威づけるための一般的責務を示した[24]。これらの多くは強制されなかったが、1948年に設立された行政機関によっていくつかの法規は体系的に強制された[24]。この法は労働者の権利に大きな肯定的影響があり、平均賃金は3倍以上に上がった[25][24]
外交

アレバロ政権は外交に関しても民主主義を支援した。アレバロが最初に取った行動のひとつは、フランシスコ・フランコ独裁下のスペインと断交することだった。アメリカ大陸諸国間会議において、アレバロはラテンアメリカの共和国が独裁政権を承認したり支援しないように勧めた。アメリカ合衆国はニカラグアソモサ体制などの独裁政権を支援したが、アレバロ政権はニカラグアおよびドミニカ共和国ラファエル・トルヒーヨ政府と外交関係を断った[26]。他のラテンアメリカ諸国との共同行動に成果が出ないことに不満を持ったアレバロはカリブ軍団(英語版)を支援した。このために独裁政権からアレバロは共産主義者と呼ばれることになった[27]

アレバロはまた中央アメリカ連盟の構想をもちかけたが、エルサルバドルのサルバドル・カスタネダ・カストロ(英語版)大統領以外は拒絶した。グアテマラとエルサルバドルの2国は1945年に同盟を発表したものの、両国の国内問題によって実現は遅れ、1948年にカスタネダ・カストロ政権がオスカル・オソリオ(英語版)のクーデターによって倒されたためにこの案は流れた[28]


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