1947年に新しい労働法規が議会を通過した。この法は多くの点で革命的であり、「年齢・人種・性別・国籍・宗教的信条・政治団体への帰属」によって給料の差別を設けることを禁止した[24]。職場の健康と安全の標準を提供し、1日8時間労働と週に45時間労働を標準化したが、プランテーションのロビーの圧力を受けて議会はプランテーションをこの規定の例外とした。この法規はまたプランテーションの所有者に労働者の子供たちのための小学校を建設することを義務づけ、労働者の地位を権威づけるための一般的責務を示した[24]。これらの多くは強制されなかったが、1948年に設立された行政機関によっていくつかの法規は体系的に強制された[24]。この法は労働者の権利に大きな肯定的影響があり、平均賃金は3倍以上に上がった[25][24]。 アレバロ政権は外交に関しても民主主義を支援した。アレバロが最初に取った行動のひとつは、フランシスコ・フランコ独裁下のスペインと断交することだった。アメリカ大陸諸国間会議において、アレバロはラテンアメリカの共和国が独裁政権を承認したり支援しないように勧めた。アメリカ合衆国はニカラグアのソモサ体制などの独裁政権を支援したが、アレバロ政権はニカラグアおよびドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ政府と外交関係を断った[26]。他のラテンアメリカ諸国との共同行動に成果が出ないことに不満を持ったアレバロはカリブ軍団
外交
アレバロはまた中央アメリカ連盟の構想をもちかけたが、エルサルバドルのサルバドル・カスタネダ・カストロ(英語版)大統領以外は拒絶した。グアテマラとエルサルバドルの2国は1945年に同盟を発表したものの、両国の国内問題によって実現は遅れ、1948年にカスタネダ・カストロ政権がオスカル・オソリオ(英語版)のクーデターによって倒されたためにこの案は流れた[28]。 十月革命の立役者のひとりであるフランシスコ・ハビエル・アラナは民間に政権を渡すことに反対し、まず1944年の選挙を延期しようと試み、その後は選挙を無効化しようとした。アレバロを大統領として認めるのとひきかえにアラナは防衛相の上に新設されたグアテマラ軍長官(Jefe de las Fuerzas Armadas de Guatemala)の地位を獲得した。この地位は任期が6年間で、軍の人事すべてを支配した。1945年12月、アレバロは自動車事故にまきこまれて重傷を負った。クーデターを恐れる革命行動党(PAR)はアラナと取引し、1950年の選挙で党がアラナを支持するかわりにクーデターを起こさないことに合意した[29]。 アレバロの改革を脅威と見なす大土地所有者の支持をアラナは集めた。1948年の議会選挙でアラナは多くの対立候補を支援したが、すべて落選した。1949年には国家刷新党(PRN)と革命行動党のいずれもアラナと敵対し、人民解放戦線(FPL)の一部だけがアラナを支持した。一方左翼諸党は軍事将校のみがアラナに勝つことができると考えてアルベンスを支持した[30]。 1949年7月16日、アラナはアルバロ大統領に最後通牒を送り、アルベンスの支持者を内閣と軍から追放することを要求し、要求がいれられなければクーデターを起こすと脅迫した。アルバロとアルベンスは会合を持ち、アラナの追放が必要であることで一致した。その2日後、アレバロ大統領とアラナが会合を持ったときにアルベンスの手勢によって銃撃が行われ、アラナ本人を含む3人が射殺された。軍のアラナ派は反乱を起こしたが、指導者を欠いた反乱は約150人の死者と200人の負傷者を出して失敗し、カルロス・カスティージョ・アルマスを含むアラナ派は亡命した。この事件の詳細は公開されなかった[31]。 アルベンスは防衛相としてすでに次期大統領の主要な候補であったが、クーデター危機への対応によってさらにその威信が高まった。1950年に中道の国家統一党(PIN)がアルベンスを大統領候補として発表し、革命行動党を含む左翼政党や労働組合の賛同を得た[32]。他の主要な候補には、革命を行きすぎと考える上流・中流階級の支持を得たホルヘ・ガルシア・グラナドスと、ウビコ政権下で将軍をつとめ、革命に強く反対するミゲル・イディゴラス・フエンテスがあった。選挙運動でアルベンスはアレバロの改革を継続・拡大することを約束した[33]。1950年11月15日に選挙が行われ、アルベンスが60%を越える票を得た。1951年3月15日にアルベンスは大統領に就任した[32]。
1949年のクーデター危機
アルベンス大統領
農地改革農地改革を宣伝するポスター