クローヴィス1世_(フランク王)
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教会堂を出たクローヴィスは馬にまたがり、前庭の門から市の中央教会へと続く道を、住民の「コンスル(執政官)万歳、アウグストゥス万歳」という歓呼に迎えられながら行進した[8][11][12][13]。そして、この日から彼は、コンスルまたはアウグストゥスと称されるようになった[12]。この、まったくローマ的な儀式により、武力で獲得したガリア支配がローマ帝国の最高官職という当時のヨーロッパ最高の権威によって承認された[14]。この承認はクローヴィスの死後、彼の子と皇帝ユスティニアヌスとの条約という形で、より正式に宣言されることになる[11]。これらの出来事は、西ローマ帝国がゲルマン人の統治下にあっても依然として法制上でも当時の人々の意識においても存続していたことを示している[15][9]。もっとも、クローヴィスに与えられた栄誉は、皇帝と養子縁組を行いローマ帝国から「カエサル」の称号[注釈 5]が与えられていた東ゴート族の王テオドリックと比べれば、ごくわずかなものでもあった[18][19]

508年セーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院)を築いた。その遺構は今もパンテオン近くにクローヴィス塔として残る。

クローヴィスは晩年フランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺した。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。

クローヴィスは511年11月27日に死去し、パリの北方4キロほどの街、サン=ドニにあるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。その遺領はフランク人特有の財産均等分割相続の習慣に従い、4人の息子テウデリククロドメールキルデベルトクロタールに分割された。フランス人の伝統によれば、パリに都したクローヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王であった。クローヴィスの生涯はトゥール司教グレゴリウスが詳細な年代記を残している。
子女

名前未詳の女性との間に、長男をもうけた。

テウデリク(485年頃 - 534年) - ランスの王

王妃クロティルドとの間には4男1女が生まれたが、1男は早世した。

インゴメール(494年)- 次男。

クロドメール(495年 - 524年) - オルレアンの王。三男。

キルデベルト(496年頃 - 558年) - パリの王。四男。

クロタール(497年頃 - 561年) - ソワソンの王、のち全フランクの王。五男。

クロティルド(? - 531年) - 西ゴート王アマラリックと結婚。長女。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b バシナについては、トゥールのグレゴリウスはテューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)の王妃とし、王と離縁した後にキルデリク1世と再婚したとしている。フランスのルネ・ミュソ=グラール(フランス語版)は『偽フレデガリウス年代記』の記述をもとに、キルデリク1世がコンスタンティノープルに滞在していた時期に娶ったビザンツ宮廷に近い女性であったと推測している[1]
^ 古代ラテン語表記のクロウィス(Clovis)、ラテン語ではクロドウェクス(ラテン語: Chlodovechus)、フランス語のクロヴィス、または古高ドイツ語および中高ドイツ語表記のクロードヴェヒ、クロートヴィヒ(Chlodowech, Chlodwig)と長音される表記もみられる。現代フランス語ルイ(Louis)、現代ドイツ語ルートヴィヒ(Ludwig)に当たる。


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