508年、セーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院)を築いた。その遺構は今もパンテオン近くにクローヴィス塔として残る。
クローヴィスは晩年フランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺した。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。
クローヴィスは511年11月27日に死去し、パリの北方4キロほどの街、サン=ドニにあるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。その遺領はフランク人特有の財産均等分割相続の習慣に従い、4人の息子テウデリク、クロドメール、キルデベルト、クロタールに分割された。フランス人の伝統によれば、パリに都したクローヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王であった。クローヴィスの生涯はトゥール司教グレゴリウスが詳細な年代記を残している。 名前未詳の女性との間に、長男をもうけた。 王妃クロティルドとの間には4男1女が生まれたが、1男は早世した。
子女
テウデリク(485年頃 - 534年) - ランスの王
インゴメール(494年)- 次男。
クロドメール(495年 - 524年) - オルレアンの王。三男。
キルデベルト(496年頃 - 558年) - パリの王。四男。
クロタール(497年頃 - 561年) - ソワソンの王、のち全フランクの王。五男。
クロティルド(? - 531年) - 西ゴート王アマラリックと結婚。長女。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b バシナについては、トゥールのグレゴリウスはテューリンゲン族
^ 古代ラテン語表記のクロウィス(Clovis)、ラテン語ではクロドウェクス(ラテン語: Chlodovechus)、フランス語のクロヴィス、または古高ドイツ語および中高ドイツ語表記のクロードヴェヒ、クロートヴィヒ(Chlodowech, Chlodwig)と長音される表記もみられる。現代フランス語のルイ(Louis)、現代ドイツ語のルートヴィヒ(Ludwig)に当たる。