クローンベルク・イム・タウヌス
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この守護権はヘッセン=ダルムシュタット方伯によって17世紀および18世紀にその有効性が確認された。後の1626年から1649年対抗宗教改革や教会の脱宗派、1737年から1768年の共同教会化後も有効とされたのである。

「古い伝統を誇るクローンベルク家の最後の成員」は、1704年に子をなさずに「神の祝福をうけ眠るヨハン・ニクラス・フォン・ウント・ツー・クローンベルク、イーベン、ローデンベルク、ホレンフェルス、アルテンバンベルクの領主」と墓碑銘に刻まれている。伯位に昇格した後継者はアールタールを見おろすホーレンフェルス城(現在のハーンシュテッテン)で亡くなった。クローンベルクとシェーンベルク、ニーダーヘーヒシュタット、エッシュボルンは帝国レーエンとしてマインツ選帝侯に授けられた。闘争教会
1704年 - 1866年

マインツ選帝侯はクローンベルクの領主権をアムト・クローンベルクとして行使した。マインツ選帝侯時代に福音主義信者の住民の多くがマインツに宗教的な苦難について訴えている。クローンベルクの教会闘争とも呼ばれるこの対立は、現在「闘争教会」と呼ばれる建物の建設を機にエスカレートした。この建物は1758年にカトリック教会として福音主義聖ヨハン教会の隣に計画された。これが福音主義住民の抵抗を引き起こした。この抵抗運動はレーゲンスブルクでの帝国会議まで継続したが、数年後に建設が聞き届けられた。建設工事は完成せず、鐘楼は再び破壊された。この建物は1768年から世俗目的に利用された(薬局、旅館、現在はクローンベルク芸術家コロニー美術館)。

1801年リュネヴィルの和約によりマインツ選帝侯は世俗所領を失った。これには帝国レーエンのクローンベルクも含まれた。1802年ナッサウ=ウージンゲン侯がこれを占領し、1803年に公式に認定された。1813年にナッサウの命令により市壁の大部分、アイヒェン門を除く塔や門が解体された。1866年普墺戦争では、ナッサウ公は住民たちの意に反してオーストリアに味方し、その結果領土をプロイセンに献上することとなった。

1862年、クローンベルク国民銀行の前身であるフォアシュスフェライン・クローンベルク & ウムゲブングが設立された。
1866年 - 1945年

ナッサウのアムト・ケーニヒシュタイン、アムト・ウージンゲン、ホムブルクは、1867年にプロイセンによってオーバータウヌス郡に統合され、1868年には新設されたヘッセン=ナッサウ州(ドイツ語版、英語版)ヴィースバーデン管区(ドイツ語版、英語版)編入された。

19世紀中頃に裕福な工場主、商人、銀行家がフランクフルトのすぐ隣に位置する牧歌的で気候の良いタウヌス地方の小都市に着目し、クローンベルクやシェーンベルクに邸宅や夏の別荘を建設した。アントン・ブルガーヤーコブ・フュルヒテゴット・ディールマンといった芸術家も1850年頃からクローンベルクに移り住み、クローンベルク芸術家コロニーが形成された。このコロニーは第二次世界大戦後まで存続していた。クローンベルクの画家の作品のいくつかは闘争教会内の美術館に展示されている。1900年頃のクローンベルク、ハウプト通り

それまで小農と職人による村落風の小都市だったこの街は、プロイセン時代に、鉄道フランクフルト=レーデルハイム(ドイツ語版、英語版) - クローンベルク線の建設(1874年11月1日開通)やフリードリヒ皇妃でヴィルヘルム2世の母親ヴィクトリア[6]の隠居所フリードリヒスホーフ城(1889年 - 1894年)が設けられたことで、重要性を獲得した。フリードリヒスホーフ城館にヨーロッパの貴顕たちが足繁く訪れたことで、駅の敷地内に「皇帝の待合室」が建設されたが、1930年頃に破壊された。

1891年に皇帝ヴィルヘルムはクローンベルク城をプロイセン政府から買い上げ、母親へのプレゼントにした。この城は1892年から1901年にルイ・ヤコービとの共同作業で贅沢に改築されていった。

1892年、クローンベルク市に電気を供給するために発電機が取り付けられた走行可能なトラクションエンジンジーメンス&ハルスケによってクローンタールに設置された。数年後この車輌はバート・ゾーデンの現在のMKWの敷地に移され、ここで予備機として利用された。

1918年から1928年までクローンベルクは、フランス統治時代に形成された行政体であるケーニヒシュタイン郡に属したが、この郡は1928年に再び廃止され、オーバータウヌス郡に編入された。

1933年10月17日、内務大臣によりクローンベルクのスペルが Cronberg から Kronberg に変更された。これは "C" による綴りが国家社会主義者によって「非ドイツ的」と見なされたためであった。1933年12月23日に最後の都市運営会議が開催され、運営責任者であるマギストラートと都市運営会議が廃止された。これ以後は、郡長から指名された市長でNSDAP都市グループ指導者のヴィルヘルム・シャウプが唯一の市の代表者となり、数人の「ラーツヘル」(中世都市の市参事会員を指す呼称)が補佐として付き従った。

現在フィデリティー・インヴェストメントの本社となっているヴィラ・ムンに、1936年にNSDAPによるガウ教育施設、1940年からは予備野戦病院が設けられた。1943年11月18日から19日かけての夜間になされた焼夷弾攻撃によって城内礼拝堂が大きな被害を受けた。小屋組みは後に半分だけ復元された。1945年3月29日クローンベルクはアメリカ軍第3軍に無戦闘で占領された。クローンベルクとその現在の市域は第二次世界大戦で約400人を失った。6人のユダヤ系住民が牢獄または強制収容所で亡くなった。
1945年以後

第二次世界大戦後クローンベルクはアメリカ占領政府統治下に置かれ、クアヘッセン、アメリカ管理地区ナッサウ部分、ヘッセン人民国のライン川右岸地区から形成されたグロース=ヘッセン、現在のヘッセン州に属した。アロシウス・ミュンヒ(中央の人物)

1946年教皇ピウス12世によるドイツの難民のための教皇使節はクローンベルクに移動した。


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