アメリカにおけるクロモリトグラフ印刷の第一号は、1840年にウィリアム・シャープ (en) が作成した『F.W.P.グリーンウッド牧師の肖像』である[4]。いまひとりの先駆者であるヘンリー・アトウェル・トーマス (fr) は、1860年代のニューヨークでクロモリトグラフ印刷機を開発した。
様式と技術の進化リュションの花祭り
ジュール・シェレ画 (1890年)
ポスターなどに使われる華やかで誇張された文字は、広告などのタイトルに使用され、その空想的な内容を効果的に表現した。しかしながら、タイポグラフィの訓練を受けていない者が作成したものには誤植が発生する場合があった。
クロモは紙以外の媒体にも応用された。もともと偽のステンドグラスを作ることを目的としたヴィトロファニー (fr) の技術に応用することで、上流階級の住居や安価なステンドグラス、イワシ缶などに印刷された[5]。
印版の素材も変化した。ゴールドプリント、エンボス加工、カットアウトなどと組み合わされるようになり、重い石は徐々に軽い亜鉛板に換わった。これにより扱いやすく保管も容易で、より大判の印刷が可能になった。アメリカのベンジャミン・デイ (en) は、印版にゼラチンを使用してグラデーションを作成するプロセスを発明した。これは彼の名を採ってベン・デイ・プロセス (en) と呼ばれている。またエアブラシも同様の効果を得るために使用された。
クロモリトグラフの技法は第二次世界大戦後まで使われたが、徐々に印版にゴムのローラーを使用するオフセット印刷に取って代わられ、経済性と収益性が重視されるに従って、創造性と独創性のレベルははるかに低くなっていった。
チェスターフィールドの9色印刷の例 (1918年)
黄
赤
黄 + 赤
白
黄 + 赤 + 白
緑
黄 + 赤 + 白 + 緑
茶
黄 + 赤 + 白 + 緑 + 茶
紫
黄 + 赤 + 白 + 緑 + 茶 + 紫
青
黄 + 赤 + 白 + 緑 + 茶 + 紫 + 青
灰
黄 + 赤 + 白 + 緑 + 茶 + 紫 + 青 + 灰
黒
黄 + 赤 + 白 + 緑 + 茶 + 紫 + 青 + 灰 + 黒
著名な出版者L.プラング
ルイス・プラング (Louis Prang)
彼はクロモリトグラフの生産を強く支持した有名なリトグラファーであり出版者である。プラングはアメリカで最初にクリスマス・カードを印刷したドイツ生まれの起業家であり、クロモリトグラフは、実際の絵画と同じくらい良く見えると感じ、イーストマン・ジョンソンの『裸足の少年』と題された人気絵画をも含む有名なクロモリトグラフを出版した[6]。彼が世間の批判にもかかわらずクロモリトグラフの製造に挑戦することを決めた理由は、質の高い芸術がエリートに限定されるべきではないと感じたからである。 彼は、産業革命が進行していたアメリカにおいて、クロモリトグラフが人間の能力を損なう恐れがあるとして軽蔑されることがあった。芸術家自身も、クロモリトグラフが普及するとオリジナルのアートワークが売れなくなることを危惧した。より売り上げを伸ばす方法として、少数のクロモリトグラフの作品を製作し、社会の人々に少なくとも画家の名を知ってもらおうとする芸術家もいた。名が知られれば、オリジナル作品を購入してくれる可能性も高くなるからである[6]。L.メッゲンドルファー
ローター・メッゲンドルファー (Lothar Meggendorfer)
主にバイエルンに拠点を置くドイツのクロモリトグラフ出版社は、低コストの大量生産で市場を支配するようになった。これらの出版者のうち、ローター・メッゲンドルファーは、子供の絵本やゲームの出版で国際的な名声を得た。19世紀半ばのドイツの政情不安により、多くのバイエルンの版画家がイギリスとアメリカに移住し、ドイツのクロモリトグラフ印刷の独占市場は消滅した。A.ホーン
オーガスト・ホーン (August Hogn)
ドイツ移民のオーガスト・ホーン(アウグスト・ヘーン)の率いる出版社 "A. Hoen & Co." は著名な石版工房であり、現在は主にE.T.ポール (en)の美麗な楽譜カバーで知られる。彼は広告、地図、シガーボックス・アートも作った。