クロアチア共和国(クロアチアきょうわこく、クロアチア語: Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、南ヨーロッパ、バルカン半島にある共和制国家である。首都はザグレブ。
本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し、対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。
ユーゴスラビアを構成していたが、1991年に独立した。 クロアチア語での正式名称はRepublika Hrvatska 発音
国名
公式の英語表記は Republic of Croatia。通称 Croatia [kro??e???] ( 音声ファイル)(クロエイシャ)。
日本語の表記はクロアチア共和国[3]。通称クロアチア。漢字表記では克羅地亜、呉呂茶など。クロアチア語による正式名称の発音は片仮名表記にするならフルヴァツカが近いが、フルヴァツカと表記されることはあまりない。「クロアティア」とはラテン語読みである。 9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方から東ローマ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチア(Duchy of Croatia このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーンが、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラヴォニアはハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた(en
歴史詳細は「クロアチアの歴史」を参照
クロアチアの統一
同君連合
オーストリア=ハンガリー帝国オーストリア=ハンガリー帝国時代の行政区分(1910年)
この後15世紀にはオスマン帝国に征服され(Ottoman wars in Europe)、その領域に組み込まれた(軍政国境地帯の内クロアチア軍政国境地帯とスラヴォニア軍政国境地帯にあたる領域はオーストリア=ハンガリー帝国側に残った)。
18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている(ハプスブルク領クロアチア王国)。これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり、1848年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチア=スラヴォニア王国に対して認めていた自治権も併せて、実態的には「オーストリア=ハンガリー=クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する[要出典]。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。
一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。ラグサ共和国として半独立していた時期もあるが、ナポレオン期のフランス帝国領イリュリア州(1809年 - 1816年)を経て、以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領(ハプスブルク領イリュリア王国、ハプスブルク領ダルマチア王国)になるまでヴェネツィアの支配が続く。なお、オーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。 1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラビア王国に改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州
ユーゴスラビア王国
クロアチア独立国