クロアチア
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クロアチア独立国内にはヤセノヴァツ強制収容所などの収容所が各地に建設され、大規模な迫害と虐殺を行っていた事でも知られる[4]

1939年に設置されたクロアチア自治州(地図中、赤地の版図)

1941年に成立したクロアチア独立国

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力解放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は維持された。しかし、1980年にチトーが死去したことを皮切りに、幹部会システムの導入や経済状況の不安定化によって、各共和国・自治州において不満が噴出しはじめた。クロアチアはユーゴスラビア連邦政府に忠実な立場を取り続けたが、1980年代半ばからスロボダン・ミロシェヴィッチを中心とするセルビア共和国とスロヴェニア共和国の対立が深まると、次第にスロヴェニアと歩調を合わせるようになっていった。
独立独立した旧ユーゴスラビア諸国(2008年

東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された(Croatian parliamentary election, 1990)。クロアチアではユーゴスラビアからの自立を掲げるフラニョ・トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が勝利し、政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。

1991年3月2日には、スラヴォニアの帰属(西部に西スラヴォニア自治区(英語版)→クライナ・セルビア人自治区(英語版)、東部に東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州)をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍(英語版)の間でにらみ合う事態となり、3月31日にはプリトビツェ湖群で両者が衝突し、死者を出す事態となった(プリトビツェ湖群事件(英語版))。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、5月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、93%の圧倒的多数が賛成票を投じた[注釈 2]。これを受けて6月25日スロヴェニアと同日に独立を宣言した。

一方でクロアチア領内にも多く住むセルビア人は、クロアチアの独立に反対していた。この地域はクライナ・セルビア人自治区(→クライナ・セルビア人共和国)として、クロアチア政府による統治を拒否する構えを見せた。また、セルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアに介入した。これに対抗したクロアチア軍は、9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突クロアチア紛争へと進む。結果1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者とセルビア人難民を生み出した。これはクロアチア軍がセルビア人自治区を襲撃し、迫害を避けるためにセルビア人はユーゴスラビア地域へ退避移住せざるを得ない状況に陥ったことによる。破壊を避けるために先祖代々の墓も退避せざるをえない悲劇であった。移住せざるを得なかったセルビア人は20万人以上と言われている。その地域をクロアチア人居住区として併合することにより民族浄化路線を完了させる。

なお、クロアチア政府は1992年以降、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にも介入し、セルビア人勢力やボシュニャク人勢力とともに戦闘、民族浄化を繰り広げた。
クロアチアのEU加盟

クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉は、2005年中にスケジュールが組み立てられ、2008年1月に発足したサナデル内閣は2010年のEU加入を目標とした。

ただし、クロアチアの加盟交渉の開始に当たってはオランダハーグに設置されている旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトヴィナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされないことを理由に見送られることになった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議において、トルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ、翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。

当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトヴィナは同年12月初頭にスペインカナリア諸島で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。

2008年、クロアチアのNATO(北大西洋条約機構)への加盟が認められ[5](実際の加盟は2009年4月)、軍事的に旧西側諸国の枠の中であると認識されるようになった。

その後、欧州委員会はクロアチアとの加盟交渉を終了し、同国のEU加盟を加盟27カ国に提案する方針を2011年6月に固めた。

2012年1月22日の国民投票で3分の2の賛成を得、議会によるEU加盟条約の批准を経て、2013年7月1日にクロアチアは正式にEUに加盟した[6]。28番目のEU加盟国であり[注釈 3]、旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロヴェニアに続く2例目となった。

2023年1月1日にユーロ通貨を導入し[7][8]シェンゲン協定にも参加した[9]
政治バンの宮殿詳細は「クロアチアの政治(英語版)」を参照

1990年の憲法制定以来、クロアチアは民主主義を標榜している。1990年から2000年までは半大統領制、それ以降は議院内閣制を採用している。国家元首である共和国大統領は国民の直接選挙による選出で、任期は5年、2期までと定められている。

大統領は軍の最高司令官であり、議会の同意のもと首相を任命し、国家元首として外交政策に影響を及ぼすものの、主に儀礼的な役割を果たす[10]ザグレブの大統領宮殿の他、避暑地のブリユニ島フヴァル島に邸宅を所有している。

サボル (クロアチア議会)2001年まで二院制を取っていたが、上院(州議院)が廃止され、現在は一院制である。サボルの議員定数は100?160人の可変で比例代表制によって選出される。任期は4年。本会議は1月15日から7月15日までと9月15日から12月15日まで行われる。

2011年12月4日、議会(1院制、定数151)選挙が行われ、野党・社会民主党を中心とする中道左派連合の獲得議席数は78で、政権交代が確実となった。一方、与党・中道右派48議席にとどまり、大敗した。[11][12]

政府(ヴラダ)は副首相と14名の閣僚を率いる首相を首班とする。行政機関は予算案、法案の策定に責任を持ち、共和国の外交、内政を実行する。政府公邸はザグレブのen:Banski dvori(バンの宮殿、クロアチア社会主義共和国時代には大統領府)である。「クロアチア政府(英語版)」も参照
地理クロアチアの地図詳細は「クロアチアの地理」を参照

クロアチアの国土は大まかに

中央クロアチア

スラヴォニア地方

ダルマチア地方


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