クロアチア社会主義共和国(クロアチアしゃかいしゅぎきょうわこく、クロアチア語: Socijalisti?ka Republika Hrvatska)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する社会主義国である。クロアチア社会主義共和国は1991年に独立したクロアチアの前身である。この国は1944年にユーゴスラビア民主連邦の構成国として設置され、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるユーゴスラビア共産主義者同盟によって統治されていた。1990年、社会主義を放棄し、多党制を導入し民主主義国としてクロアチア共和国へと移行し、その後まもなく独立を果たした。 クロアチア社会主義共和国は、クロアチア連邦国(Federalna Dr?ava Hrvatska; FD Hrvatska)として1944年5月9日に、クロアチア人民解放国家反ファシスト委員会の第3回会合にて設立された。ユーゴスラビアはこの当時、ユーゴスラビア連邦国(Federalna Dr?ava Yugoslavia)と呼ばれており、憲法上は社会主義国家ではなく、さらに共和国でもなかった。終戦を前にして、これらのことが議題にあげられた。1945年11月29日、ユーゴスラビア連邦国はユーゴスラビア連邦人民共和国へと改称され、共産主義国家となった。これに従って、クロアチア連邦国はクロアチア人民共和国(Narodna Republika Hrvatska; NR Hrvatska)へと改称された。 共産主義国家であるクロアチア人民共和国では、私有財産は段階的に国有化された。特に1945年8月にユーゴスラビア政府が制定した「土地改革と入植に関する法律」により同年秋から1948年にかけて実施された土地改革によって、古い地主やクロアチアのカトリック教会は莫大な資産を失うこととなった。[4] クロアチア人民共和国では大規模な戦後復興事業が進められた。この時の特徴として、道路建設やその他公共設備の建造などの復興事業の多くは、若者を集めてのボランティアによる公共事業として行われた点が挙げられる。この時代の公共事業の多くはユーゴスラビアの連邦政府が資金提供していた。 1963年4月7日、ユーゴスラビア連邦人民共和国(FNRJ)はユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)へと改称された。[5] また、ユーゴスラビアでは1948年のティトーとスターリンの決別後、スターリニズムは大規模に禁止されていた。1963年、クロアチア人民共和国はクロアチア社会主義共和国へと改称され、スターリン主義からの脱却を鮮明化した。 クロアチアの経済は、社会主義の一形態として自主管理社会主義(radni?ko samoupravljanje)と呼ばれる方式に基づいて進められた。自主管理社会主義では、企業は国営で、労働者は利益の一部を分配される。この形式の社会主義はクロアチアに初めて導入され、その後他のユーゴスラビア構成国にも導入された。クロアチアは、経済学における労働者の自主管理の分野において、世界的に知られるブランコ・ホルヴァト(Branko Horvat 工場やその他の組織が「パルチザン」と命名されることは頻繁に起こった。パルチザンはユーゴスラビアの人民の英雄と考えられていた。第二次世界大戦前、クロアチアの産業はそれほど目立ったものではなく、ほとんどの人々は農業に従事していた。クロアチアの工業化が進んでいた頃と同時期に、アドリア海は国際的な観光地としての色彩を強め、ユーゴスラビアの沿岸部の構成国は(大部分はクロアチアであるが)大きな収入源を得ることになった。この当時にクロアチアを訪れた観光客は、独立後の21世紀初頭よりも多かった。政府は、いまだかつてない経済・産業の成長をもたらし、高いレベルの社会保障と極めて低い犯罪発生率を達成した。国家は完全に第二次世界大戦の破壊から立ち直り、国内総生産の急成長を記録した。 政治の面からみると、ユーゴスラビアにおいてクロアチア人はセルビア人と比べて少数であったものの、その指導者でクロアチア人であったティトーは、主要2民族の間の対立関係を抑えるために、慎重に政治を進めた。その中では、双方の民族主義は抑圧の対象とされた。1963年のユーゴスラビア社会主義連邦共和国の憲法では、その国名を「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と定めると共に、セルビア人がその支配権を握ることを認めなかった。それによって、セルビア人たちの不満はさらに高まっていった。クロアチアは連邦の政治により高いレベルで参加できるようになり、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の9人の首相のうち5人はクロアチア人であった。しかし、セルビア人はユーゴスラビア王国時代と同様に、軍や秘密警察での支配権を握り[6][7]、ユーゴスラビア人民軍(JNA)の将軍の多くはセルビア人かモンテネグロ人であった。 1965年以降(OZNA
設立
社会主義共和国
経済
政治
1970年代初頭、西側諸国にいたウスタシャの影響を受けた集団は、マフィア的手法やテロリズム活動を通じてクロアチアの独立運動を起こそうとした[9]。そして、少数のゲリラにまで発展したものの、多くのクロアチア人や、その他のユーゴスラビア人カトリック教徒はこれに賛同しなかったために、分離主義者の運動は失敗に終わっている[10]。
ティトーの死後(1980年以降)