クロアチア独立国
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クロアチアのファシズム団体・政党ウスタシャの政権であるが、一般にドイツ及びイタリア傀儡国家と見做されている。独立国家クロアチアと訳されることもある[6]
クロアチア自治州

ユーゴスラビア王国1918年に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として建国されたが、当初からセルビア人クロアチア人の不和という問題を抱えていた。ヴェルサイユ体制に支えられたセルビア人の集権的統治に対し、分権志向のクロアチア人は大きな不満を抱く。1928年に入ると議会内暗殺事件(クロアチア語版、セルビア語版、セルビア・クロアチア語版)が発生する。これを重く見たカラジョルジェヴィチ朝の国王アレクサンダルは混乱を収拾すべく、1929年1月6日に議会の解散および憲法の停止を命じ、国王独裁を宣言した(1月6日独裁制)。また「上からの」統合を加速するべく、国号も「ユーゴスラビア王国」と改めた。しかしアレクサンダルは1934年マルセイユ暗殺された(当時クロアチア民族主義者の犯行と思われたが、現在真相は不明)。王位はペータル2世に継承されたが未成年だったため、パヴレ公を中心とする3人の摂政がユーゴ政府を率いた。1939年、ツヴェトコヴィチ首相(英語版)とクロアチア農民党(英語版)のヴラトコ・マチェク(英語版)が折衝を続け、「大クロアチア」をほぼ実現するクロアチア自治州(セルビア・クロアチア語版、英語版)を創設することで、国内の深刻な対立をなんとか収束しようとした。この時の「協定」はスポラズム(en)の名で知られる[7]。しかしこの政策は、国内の矛盾を拡大させただけで終わった。
クロアチア独立国「建国」

1940年11月にルーマニアハンガリー日独伊三国同盟に加盟すると、翌1941年ブルガリアが加わり、同年3月ユーゴスラヴィア王国も加盟に踏み切った[8]。ところが他国とは異なってユーゴでは反対運動が大きくなり、3月26日 - 27日に王国軍のドゥシャン・シモヴィチ(Du?an Simovi?)を中心とした親西欧派のクーデターが発生する。この動きに対してヒトラーは激怒したと言われる[9][10]1941年4月にドイツとイタリアによるユーゴスラビア侵攻が始まり、6日からベオグラード攻撃に入った。その後ユーゴ王国軍は、2週間を待たずに降伏した[11][9]ユーゴスラビア侵攻も参照)。こうしてユーゴスラヴィア王国の歴史は幕を閉じ、その国土は枢軸国のあいだで分割・占領された。4月10日にはドイツ国防軍ザグレブに入城しており、同日「クロアチア独立国」の樹立が宣言される[9][12]。ドイツは分割統治を狙って民族対立を利用し、クロアチア自治州を上回る版図を割り当てたが、結果的に民族主義者の宿願である中世クロアチア王国の領域が再現された[13]

この時、建国の先鋒となったのがクロアチアのファシズム集団ウスタシャであり、その指導者アンテ・パヴェリッチであった。表向きは「王国」の体裁をとり、サヴォイア家からアオスタ公アイモーネ(en)を象徴君主として迎えた。アイモーネはクロアチア建国の英雄トミスラヴ王(Tomislav)の名を冠し、トミスラヴ2世として5月18日に形式上の国家元首である国王に即位した[14]。ただし、クロアチア王位はあくまで象徴的な意味合いだけで、決して如何なる実際上の権力も持っていなかった上に、トミスラヴ2世はクロアチア人によるテロを恐れ、自らの領国には足を踏み入れず、イタリアに留まった。

パヴェリッチは4月10日にユーゴスラビアから分離した独立クロアチアを組織する旨を発表[15]。同時にポグラヴニク(Poglavnik)(国家元首または首長と訳される)となって首相と外相を兼務した。ポグラヴニクという地位は、国王が国内に不在であるクロアチアにとって、事実上の最高指導者であった。更に彼はファシズムの先駆者であるヒトラーやムッソリーニを模範に一党独裁政権を樹立した。他の政党はすべて非合法化され、自身の親衛隊を創設。なおウスタシャは旧ユーゴスラビア王国から以下の領土を割取した。クロアチア独立国の領土

スロベニアドレンスカ地方


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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