クロアチア人
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2世紀から3世紀にかけて黒海北岸からドン川下流域にかけて居住していたと考えられる民族ホロアートイは、クロアチア人がかつて自称として用いていた「フルヴェート」と関連付けられることもある[5]10世紀前半に『帝国の統治について(帝国統治論、De Administrando Imperio)』を著した東ローマ皇帝コンスタンティノス7世[6]、西ウクライナから東スロバキアにかけての地域に「白フルヴェート」が居住していたことを記録している[5]

クロアチア人は7世紀から8世紀にかけてバルカン半島北西部に移住するが、原住地や集団の分類についての定説は存在しない[7]東ローマ帝国の皇帝ヘラクレイオスがダルマチア地方の防備のためにバルカン半島北西部に移住させた民族だと言われている[1]

言語学・史料の記述を基にクロアチア人の起源をスラヴ人に結びつける説のほか、イラン系民族説、ゴート族説が挙げられている[8]本来はコーカサス地方に居住していたイラン系のサルマート人がフン族によって圧迫され、ヨーロッパに移住する中でゴート人やスラヴ人を吸収するが、逆にスラヴ化されたという説が有力視されている[5]。イラン系民族説ではクロアチア人はサルマート人と結び付けられることが多いが、クルド人との関係を探る試みもなされている[9]

バルカン半島独特のザドゥルカと呼ばれる家父長制による大家族共同体は、クロアチア人社会にも存在していた[1]
歴史「クロアチアの歴史」も参照

クロアチア人がバルカン半島に移住した7世紀から8世紀にかけてのクロアチアの歴史は、文献史料や考古学的史料の欠如のために不明な点が多い[10]。クロアチア人は東ローマ帝国とフランク王国の影響下に置かれ、8世紀から9世紀末にかけてアドリア海沿岸部のダルマチアと内陸部のスラヴォニア(パンノニア)に二つのクロアチア人国家が形成された[11]。ダルマチアに拠点を置くトルピミル1世は「クロアチア人の公」と呼ばれ、彼の子孫が君臨した王朝はトルピミロヴィチ朝と呼ばれるようになった。トルピミルの後継者の中には非トルピミロヴィチ家出身の人物と思われる人物がおり、そのうちの一人であるブラニミルはフランク王国からの独立を達成した人物と見なされている[12]

925年頃にダルマチアの公トミスラヴがクロアチア王として戴冠され、クロアチア王国が成立した[13]。この時期のクロアチアは12世紀から20世紀にかけてクロアチアを支配した外国人の国家と対比して「民族王朝」と表現される[12]。クロアチアはローマ・カトリック東方正教会の両方の影響下に置かれていたが、9世紀から10世紀にかけてクロアチア人はカトリックを受容した[1]。クロアチア王ドミタル・ズヴォニミル(在位:1075年 - 1089年)の死後、クロアチア王家と縁戚関係にあったハンガリー王国アールパード家がクロアチアの内紛に介入し、1102年にハンガリー王カールマーンがクロアチア王として戴冠され、ハンガリー統治下のクロアチアとダルマチアには副王(総督、バン)が設置された。

16世紀前半にクロアチアはハプスブルク家が指導するハンガリーとオスマン帝国に分割される。オスマン帝国の統治下で大部分のクロアチア人はイスラム教に改宗し、イスタンブールの宮廷や軍隊で高い地位を得るものも現れた[14]。オスマン帝国の支配を拒絶するクロアチア人は征服を免れた土地に逃れ、あるいはハイドゥクと呼ばれるオスマン帝国の支配に抵抗する義賊として活動した[14]。ハンガリーの支配下に置かれた地域では封建制に基づく支配が布かれており、農民の蜂起が頻発していた[14]。一方でハプスブルク家の統治を通してラテン文化、ローマ・カトリック文化がクロアチアに影響を及ぼし、ラテン文字の普及が進展した[1]

1664年のヴァシュヴァールの講和でハプスブルク家がオスマン帝国に多くのクロアチア領を割譲したことに不満を抱いた総督ペータル・ズリンスキはハプスブルク家に対する反乱を企てたが、ズリンスキの計画は露見し、1671年に処刑される[15]。17世紀オスマン帝国の衰退期には、クロアチア人の在住地はヴェネツィア共和国オスマン帝国オーストリア帝国の3勢力に分断された。

1809年ヴァグラムの戦いでオーストリアに勝利したフランスはサヴァ川以南のクロアチアを獲得し、イリュリア州が設置される。1809年から1813年にかけて存続したイリュリア州は、クロアチアの枠を超える南スラヴ人の統合運動に刺激を与えた[16]。イリュリア州では土地の言語による教育が奨励され、初等教育にクロアチア語が使われた。1812年にはシメ・スタルチェヴィチによって最初のクロアチア語の文法書である『新イリュリア語』が刊行された[17]。イリュリア州の設置によって南スラヴの統一が進展した反面、オーストリアとフランスによって分断されたクロアチア人は互いに戦うことを余儀なくされる[18]

1830年代から1840年代にかけてクロアチアを中心に展開された、イリュリア運動と呼ばれる南スラヴ民族の統合を訴える文化・政治的な運動は、クロアチア民族再生の一部を構成している[19]1835年にイリュリア運動の指導者であるリュデヴィト・ガイによってクロアチア語による本格的な新聞と雑誌が刊行され、住民からの反響があったものの、定期購読者の数は少なかった[20]。後期のイリュリア運動はクロアチア人を中心とする大クロアチア主義に変質し、セルビア人、ブルガリア人からは支持されず[21]、クロアチア内でもダルマチアやイストリアのように独立性が高い地方ではイリュリア運動の影響は限定されていた[22]。しかし、イリュリア運動はクロアチアで近代市民社会が備えている諸制度や組織の創始を促進し、言語・文化的共通点に基づいた「クロアチア人」としての国民意識を住民に抱かせる嚆矢となる[22]

1848年から1849年ハンガリー革命を鎮圧したヨシプ・イェラチッチはクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアを統合する王国を樹立する。1848年3月25日にザグレブで開催された民族会議で、クロアチア・ナショナリズムの根幹となる「民族の要求」が採択され、同時にイェラチッチがクロアチア総督に選出される。イェラチッチはハンガリーからの自立を試み、コッシュートが樹立した革命政権を打倒する。

イェラチッチ、ズリンスキが抵抗した勢力はそれぞれ異なり、彼らが守り抜こうとした政体は現在のクロアチア国家に直結するものではなかったが、彼らはともにクロアチア民族の英雄として敬意を払われている[23]。1870年代かにカトリックと東方正教の信仰の違いを超えて南スラヴ人による統一国家の建設を望むユーゴスラヴィア主義が高まりを見せるようになる[24]。19世紀以降には南北アメリカやオーストラリアにクロアチア人の居住地が形成された[25]。19世紀からクロアチア人コミュニティのほとんどがオーストリア帝国(1867年からオーストリア・ハンガリー帝国)の領域に入ったが第一次世界大戦でオーストリアが敗北したためクロアチア人コミュニティはすべてセルビア(ユーゴスラビア)領となる。第一次世界大戦後に建設されたユーゴスラヴィア国家では、クロアチア人は国家が推進するセルビア中心主義に強く反発した[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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