クロアチア人
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後期のイリュリア運動はクロアチア人を中心とする大クロアチア主義に変質し、セルビア人、ブルガリア人からは支持されず[21]、クロアチア内でもダルマチアやイストリアのように独立性が高い地方ではイリュリア運動の影響は限定されていた[22]。しかし、イリュリア運動はクロアチアで近代市民社会が備えている諸制度や組織の創始を促進し、言語・文化的共通点に基づいた「クロアチア人」としての国民意識を住民に抱かせる嚆矢となる[22]

1848年から1849年ハンガリー革命を鎮圧したヨシプ・イェラチッチはクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアを統合する王国を樹立する。1848年3月25日にザグレブで開催された民族会議で、クロアチア・ナショナリズムの根幹となる「民族の要求」が採択され、同時にイェラチッチがクロアチア総督に選出される。イェラチッチはハンガリーからの自立を試み、コッシュートが樹立した革命政権を打倒する。

イェラチッチ、ズリンスキが抵抗した勢力はそれぞれ異なり、彼らが守り抜こうとした政体は現在のクロアチア国家に直結するものではなかったが、彼らはともにクロアチア民族の英雄として敬意を払われている[23]。1870年代かにカトリックと東方正教の信仰の違いを超えて南スラヴ人による統一国家の建設を望むユーゴスラヴィア主義が高まりを見せるようになる[24]。19世紀以降には南北アメリカやオーストラリアにクロアチア人の居住地が形成された[25]。19世紀からクロアチア人コミュニティのほとんどがオーストリア帝国(1867年からオーストリア・ハンガリー帝国)の領域に入ったが第一次世界大戦でオーストリアが敗北したためクロアチア人コミュニティはすべてセルビア(ユーゴスラビア)領となる。第一次世界大戦後に建設されたユーゴスラヴィア国家では、クロアチア人は国家が推進するセルビア中心主義に強く反発した[24]

クロアチアはドイツと関係を強くして、1941年クロアチア人の多く在住する地域を中心にクロアチア独立国を形成する。だがクロアチア独立国は事実上ナチス傀儡国家であったので、ユーゴスラビア共産主義者同盟ヨシップ・ブロズ・チトーにより独立を取り消されクロアチアはユーゴスラビアに復帰する。チトーは祖国解放の功績からクロアチア人のみならずセルビア人などユーゴスラビア国内の他民族からも尊敬を集めた。第二次世界大戦終戦直後、1960年代のクロアチアでは政治的・経済的な理由のため、ドイツ、オーストリア、スイスなどのヨーロッパの他国への移住が活発化した[25]

連邦制を採用していたユーゴスラビアの崩壊を経て1991年にクロアチアは独立する。長期にわたる戦闘の末独立を勝ち取ったが、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境付近に存在するセルビア人コミュニティが無視できず、ユーゴスラビア連邦軍との戦闘が終結したあとも小規模な戦闘が1995年まで続いた。このとき多数のセルビア人がクロアチアを追われてセルビアなどに移住したので、現在クロアチア国内におけるクロアチア人の人口比率は独立直後に比べて高くなっている。
セルビア人との関係

19世紀のイリュリア運動から発した大クロアチア主義は、クロアチア人の民族感情の一部に残り、クロアチアに住むセルビア人への迫害、大セルビア主義との衝突という形をとって現れることもあった[24]第二次世界大戦前には歴史的に反目しあうクロアチア人とセルビア人を中央集権制によってまとめる試みがなされたが、失敗に終わった[26]。行き過ぎたクロアチア人の独立精神と愛国心は、時に極端な形を取ってセルビア人に対する強い拒否感を示すことがある[26]

カトリック信仰を受容し、ラテン語を用いるクロアチア人は、東方正教を信仰してキリル文字を用いるセルビア人と対比されるが、クロアチア語の表記にあたっては長らくラテン文字とともにグラゴル文字、キリル文字が併用されていた[1]
地域性

クロアチア人の伝統文化と産業はクロアチア北部の平原地帯(スラヴォニア)、ザグレブを中心とする内陸部の山岳地帯、ダルマチア沿岸部の三地域に分類できる[26]。スラヴォニアでは土壌を生かした農耕牧畜、山岳地域では季節に応じた移牧、ダルマチアではオリーブなどの果実の栽培や漁業が営まれている[1]。地域性は居住する人間の気質にも結び付けられており、イタリア文化の影響が濃いダルマチア人は陽気で大雑把、スラヴォニア人と山地の人間は保守的で堅実な性格だといわれている[26]。衣服の素材にも地域性が現れており、平原部は亜麻、リネン、木綿、山岳部は動物の毛や毛皮、外部との交流が活発なダルマチアではレースや鮮やかな色彩の布地といった装飾性の高い衣服が着られていた[1]
脚注^ a b c d e f g h i 柳田「クロアチア」『世界民族事典』、240-241頁
^ カステラン、ヴィダン『クロアチア』、13頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、35-36頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、36頁
^ a b c 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、35頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、37頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、35頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、38-39頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、38頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、40頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、40-41頁
^ a b 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、41頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、40-42頁
^ a b c カステラン、ヴィダン『クロアチア』、29頁
^ カステラン、ヴィダン『クロアチア』、29-30頁
^ 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、263頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、60-61頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、60頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、64頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、66-67頁
^ 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、263-264頁
^ a b 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、68頁
^ 柴、石田『クロアチアを知るための60章』、50-53頁
^ a b c 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、264頁


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