ゴットワルトはスターリン主義者であった。このため、政府内からソ連に反対する勢力を排除するために、まず非共産主義者を排除し、続いて共産主義者の粛清も行うようになった。ゴットワルトにより粛清された人物は、元共産党書記長のルドルフ・スラーンスキーや元外務大臣のヴラジミール・クレメンティス[2]、グスターフ・フサークにまで及んだ。スラーンスキーとクレメンティスは絞首刑に処された。フサークは終身刑ですんだが、後に名誉回復され、第一書記をつとめた。
1953年3月9日のスターリンの葬儀から戻った5日後に肺炎で亡くなった[3]。心臓病に加え、深酒[4]と梅毒が原因だと言う。遺体は防腐処理されてそれを納める霊廟が建てられたが、1962年に撤去され、遺体は火葬された。
エピソード
ゴットワルトの伯父はアメリカ合衆国に移住し、その孫娘にあたるエセルはロバート・ケネディ夫人になっている。
1989年に発行された100コルナ紙幣に肖像が使用されていたが、翌1990年には流通が停止された。没後50年以上経過した2005年にチェコ国内で行われた「最悪なチェコ人」の投票では、ゴットワルトは投票総数の26%を得て1位に選ばれている。
脚注^ 民主的な選挙で共産党が獲得した得票率としては世界一であり、現在まで破られていない。
^ 1948年2月21日に撮られた写真で、ゴットワルトとクレメンティスが並んで写り、ゴットワルトがクレメンティスから帽子をかぶらせてもらう有名な写真があった。クレメンティス粛清後は、写真は修正されてクレメンティスの姿は消され、彼の帽子だけが写真に残された。この写真を撮影した写真家も処刑された。
^ フランソワ・フェイト 著、熊田亨 訳『スターリン以後の東欧』(3版)岩波書店、1970年10月24日、6頁。
^ このため晩年のゴットワルトは酒を控えねばならなかったが、スターリンと会した際に彼から酒を薦められたことがある。これを断わるのは、ともすれば政治生命を絶たれかねないことだったので、その場にいたマルタ夫人が夫の代わりに飲むことをお許しください、同志スターリン。2人分飲みますわと2人分のコップを飲み干して事なきを得ている。
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