クレメント・アトリー
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幼少期のアトリーは病弱であったが[4][3]、就学するとクリケットに熱中した[3]

アトリーは、パブリックスクールであるヘイリーベリー・カレッジ(英語版)在校を経て、オックスフォード大学に進学した[6]。学生時代のアトリーは保守的な政治思想を有しており、保守党を支持していた[7]。他方で伝統的な国教会については迷信と考えており、不可知論者であった[8]。父ヘンリーはアトリーに、当時の会社重役クラスの給与に相当する額を仕送りとして送金していたので、アトリーは生活に困窮することはなかった[9]。アトリーは大学で催された討論会にも度々出席したが、恥ずかしがり屋の性格のため、発言回数は多くなかった[10]

大学卒業後、アトリーはリンカーン法曹院に入った[11]。フィリップ・グレゴリーはアトリーの才能を見込んで、弁護士になるための指導を行った。グレゴリーの指導はスパルタ的で、アトリーは「死にそうになるまで働かされた」と述懐している[11]。アトリーは1906年に法廷弁護士試験に合格し、その資格を得た。その後、アトリーは後述のように、社会活動・政治活動に身を投じるようになるので、法曹関係の仕事に携わった期間は短く、弁護士として法廷に立ったのは4回しかなかった[11]

1905年に兄トム(Thomas Simons Attlee)の勧めでステップニー(当時はロンドンのスラム街)のヘイリーベリークラブを訪問した[12]。これはいわゆるセトルメント機関である。アトリーはヘイリーベリークラブの運営に関わるようになり、少年たちに読み書きやスポーツの指導などを行った。1907年からはヘイリーベリークラブの専従の運営者になった[13]。アトリーはヘイリーベリークラブでの勤務を通じて、当時のイギリスの貧困層の実態を知った[14]

アトリーと兄トムは次第に社会主義思想に傾倒するようになり、ウェッブ夫妻らによって設立されたフェビアン協会を訪問した[15][16]。その後彼らは独立労働党に入党した[17]。彼らの活動は父ヘンリーには「無意味な行動」とされて理解されなかった[17]。ヘンリーはその後1908年に他界した[18]。アトリーは親から相続した資産があったので、ある程度、社会活動を行う金銭的余裕があったが、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでの講師の職も勤め、生計を立てた[16]
第一次世界大戦の出征従軍するアトリー(中央の人物)。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アトリーはイギリス陸軍への入隊を志願した[19]。当時アトリーは31歳で軍務の適齢期を過ぎていたが、縁故を利用して入隊した[19]。兄トムは反戦を主張して投獄され、第一次世界大戦中刑務所で過ごした[20]。第一次世界大戦での兄弟間での方向性の違いは、両者の間に一時的な確執を生んだ。

イギリスのアスキス内閣の海相ウィンストン・チャーチルは、要衝であるダーダネルス海峡を抑えるため、同盟国側(ドイツ側)で参戦したオスマン帝国が要塞化したガリポリを占領することを企図した(1915年のガリポリの戦い[21]。アトリーはこの作戦に従軍したが、隊員の間で赤痢が流行してアトリーも罹患し、治療のため彼は戦線を離れた[21]。その後アトリーの所属していた部隊は戦闘で、所属隊員の3分の2以上の死傷者を出した[21]。ガリポリ上陸作戦は、英軍側に大損害を出して失敗した。イギリス世論は作戦を指導したチャーチルを糾弾し、それが元で彼は海相の地位を追われることになった[22]。しかしアトリーは、チャーチルの立案したこの作戦について、肯定的に評価していた[22]

アトリーは続いて、スエズ運河とペルシャ湾の、英の石油利権の保護を目的とする戦役である、メソポタミア戦役(英語版)に従軍した[22]。エル・ハンナという地で、トルコ軍に対し英軍は大攻勢を仕掛けた。友軍の砲兵隊の援護射撃のもと前進していたが、友軍の放った砲弾によってアトリーは負傷し、治療のため彼は再度戦線を離れた[22]

1917年にアトリーは少佐に昇進した[23]。同年彼はフランス戦線に配置された[23]。1918年の8月に彼の大隊はドイツ軍に攻勢を仕掛け、塹壕を占領したが、敵の放った砲弾で材木が倒れ、それがアトリーの背中を直撃した[23]。アトリーは治療のため、イギリス本国のワンズワースの病院に入院した。奇しくもその病院は、兄トムが反戦を主張して投獄されている刑務所のすぐ近くであった[23]

第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が勃発し、ウラジーミル・レーニンによってボリシェヴィキ政権が樹立された。このことについてアトリーは、兄トムへの手紙で「(レーニンとトロツキーには)酷く腹が立つ。彼らはロンドンのホワイトチャペル地区の一番過激な社会民主党員(英語版)(イギリス共産党の前身)を思い出させる。彼らが統治している国の状態は想像できる。」と嫌悪感を示した[23]

第一次世界大戦での軍歴から、アトリーは「アトリー少佐」と呼ばれることもある[24]
ステップニーの市長就任バイオレット・ミラー(英語版)。

1918年に第一次世界大戦が終結すると、アトリーは1919年1月に軍を除隊し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでの講師職に復職した[25]


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