初代アトリー伯爵クレメント・リチャード・アトリー(英語: Clement Richard Attlee, 1st Earl Attlee、1883年1月3日 - 1967年10月8日)は、イギリスの政治家、弁護士、陸軍軍人。同国第62代首相(在任:1945年7月26日 - 1951年10月26日)。労働党党首、王璽尚書、副首相などを歴任[1]。1955年に世襲貴族のアトリー伯爵に叙爵された。
ラムゼイ・マクドナルド以来2人目の労働党出身の首相で、史上初めて労働党が庶民院で過半数の議席を制し、安定的な政権運営を行うことができた。内政では社会民主主義の立場から、充実した社会保障制度の創設や基幹産業の国有化などを政策を推し進め、イギリスはベヴァリッジ報告書構想に基づく福祉国家の建設に歩みだした。外交では長年のイギリスの植民地であったインド・パキスタン・セイロン・ビルマの独立承認などを実行した。アトリーの政権担当時期に東西冷戦が勃発したが、外相アーネスト・ベヴィンの主導でアトリー内閣は反共主義の立場を明確にし、イギリスは、東側陣営に対抗するための集団安全保障体制である、北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国の一つとなった。 クレメント・アトリーは1883年1月3日、ロンドンで誕生した[2](以下アトリーと略)。8人の兄弟姉妹の、上から7番目の子であった[2][3]。 父のヘンリー・アトリーは弁護士で、イングランド・ウェールズ法律協会
生涯
出生から青年期まで
母のエレンは、保守的な家に生まれ保守党を支持していた。アトリーの両親は、朝食時に子どもたちに聖書の一節を読ませるなど、熱心な国教徒であった[5]。幼少期のアトリーは病弱であったが[4][3]、就学するとクリケットに熱中した[3]。
アトリーは、パブリックスクールであるヘイリーベリー・カレッジ(英語版)在校を経て、オックスフォード大学に進学した[6]。