なお Eole(エオール)は風神アイオロスのフランス語形。 その後アデールはアヴィオンII
アヴィオン
アデールの研究成果は陸軍省長官シャルル・ド・フレシネの興味を惹いた。フランス陸軍省の支援を受け、アデールはアヴィオンIII号を開発した。それはリンネルと木で出来た巨大なコウモリのような機体で、翼幅は16ヤード、四枚羽の牽引式プロペラ二つを、30馬力の蒸気機関二つで駆動した。地上滑走テストを充分に行なった後、アデールはサトリで飛行を試みた(1897年10月14日)。目撃者の中には、アヴィオンが前進し、空に向けて飛び立ち、そして(公式な就役の前には)300ヤード以上を飛行したと断言する者もいる一方、アヴィオンIII号は離陸すらしないうちに壊れたと断言する者もいる。いずれにせよ、軍はこの試験に失望して資金援助を打ち切った(とはいえ結果を機密のままに保持はした)。ライト兄弟が飛行を成し遂げた後、フランス政府はアデールの飛行に関する情報を、成功していたものとして公開した。
なお「飛行機」を意味するフランス語 avion (アヴィオン)は、彼の試作機に由来する。 "L'Aviation Militaire"(軍事航空)はクレマン・アデールが1909年にパリの出版社Berger-Levraultから刊行した書籍である。この本はアデールが19世紀の末に案出し1907年までかけて改良を重ねた考えに基づいている。非常な人気を得た本で、刊行から第一次世界大戦までの5年の間に十の版を重ねた。 航空母艦のコンセプトを示し、注目を集めた。アメリカが艦上から飛行機を離陸させることに成功した(1910年)のは、パリの大使館付き海軍武官が本国にL'Aviation Militaireの報告を送った一年後のことであった。[3] 2003年には"Military Aviation"の題で英訳がなされている。 全てを放棄して公衆の前から消えた「航空の父」は、晩年トゥールーズ郊外でブドウ園を経営した。1922年にレジオンドヌール勲章を受賞し、1926年にトゥールーズで生涯を閉じた。 彼のアヴィオンは現在に至るまでパリ工芸博物館に展示されている。フランス以外の航空史研究者には、アデールの飛行が全て墜落で終わったとして、またアデールが晩年に自分の成果を誇張したとして、航空史における彼の高評価に異議を唱える者もいる。しかしながら、エオールによる1890年10月9日の飛行に関しては比較的反論が少なく、アデールは今なおその業績で評価されている。1938年、フランスはアデールの名誉を称える切手を発行している。またトゥールーズに集まるエアバスの一機に、彼の名が冠されている。
"L'Aviation Militaire"
晩年アヴィオンIII号
出典^ Georgano, G.N. Cars: Early and Vintage, 1886-1930. (London: Grange-Universal, 1985).
^ a b 『パイオニア航空ものがたり』p.36
^ Sandcastle V.I. - Carriers: Airpower at Sea - The Early Years / Part 2
関連項目
アルフォンス・ペノー
フェリックス・デュ・タンプル
アレクサンドル・モジャイスキー
二宮忠八
ライト兄弟
主要参考資料
根元智『パイオニア飛行機ものがたり』オーム社、1996年、ISBN 4-274-02314-1
外部リンク
⇒Clement Ader
⇒Clement Ader's flying machines
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